2016年10月27日

ボブ・ディランは傲慢か

今年のノーベル文学賞が授与されると決まってから(辞退の意思表示もするワケでなく)音信不通になっているボブ・ディランに対して、選考委員が「無礼で傲慢」と不快感を露わにしているが、本当に無礼で傲慢なんだろうか。私には選考委員のほうが傲慢に思える。「せっかく選んでやったのに」という上から目線の物言いであって、「アンタたち、何様?」と訊きたくなる。

そもそも、ディランは「ノーベル賞を欲しい」などと全く思っていない。要らない人に勝手に「授与する」と決めておいて、受け取らない(連絡が取れない=してこない)ことを傲慢だと言う・・・、何か変。

お腹が空いてなくてピザを食べたいとも何とも思ってない人のところに第三者がピザの配達を勝手に依頼して、食べたかどうか、とか、お礼も言ってこないのは失礼だ、と言ってるようなもので、ディランがノーベル文学賞を受けるも断るもディランの自由だし、まあ意思表示(何らかのコメント)はしたほうがいいだろうけど、それもディランの自由。反体制のディランの対応は予想もついていたハズ。

と言うか、なんでディランがノーベル文学賞なの?、という疑問はある。何も「小説家でなければ相応しくない」と言っているのではない。詩人が受賞してもいいものだろうけど、ディランの歌詞にノーベル賞の価値が本当に有るんだろうか。そういう作品が何曲あるんだろうか。他に執筆活動をしているんだろうか、どうにも選考基準が分からない。私からすると年末の「新語・流行語大賞」と同じレベル。

過去には「核を廃絶しましょう」と言っただけで、その期待感で平和賞を貰った大統領もいたっけ。何か実現されたんだろうか、逆に、核保有国も核の数も増えているじゃないか。そんなのは成果があってから出すのが当たり前。でなければ、あの「スタップ細胞はあります」の小保方氏に医学生理学賞が与えられてもおかしくないことになる。

「南北統一に向けて努力する」と言っただけで平和賞が与えられたりもした。努力はしたんだろうけど成果は全く出ていない。そりゃあ当たり前である。外交はそもそも相手のあることであって一方の思惑だけでは進まないのだから。で、今、どうなっているか、と言えば当時より酷くなっている。

化学賞や物理学賞、医学生理学賞などの理系の賞は、オリンピックで言えば着順を競う競技で、誰の目にも優劣の判断は正確につくもの、文学賞や平和賞などは採点競技のようなもの。審判の判定は絶対だが、本当にそれで公正とは言い切れない。まさかに「後方伸身2回宙返り4回捻りをやります」と宣言しただけで10点満点が貰えるワケもないけど。もしかすると2位や3位の選手のほうが上だったかも知れない。平和賞なんか、「何をしたいか」選挙の公約で謳っただけで受賞している。

もうノーベル賞から文学賞と平和賞を消してほしい、そんな思いである。

ところで、私がよく鑑賞している動画に、こんなのがある。

ギターの神様とも呼ばれているエリック・クラプトンのコンサートにボブ・ディランがゲスト出演した時の模様であるが、登場の仕方からして「ただならぬ雰囲気」で、終始「大物感」を漂わせていて、神様のほうが気を遣っているのが見てとれる。この動画を観ていると、たしかに「無礼で傲慢」だと思える。と言うより、唯我独尊、孤高の人物なんだろう。別の言い方をすれば「ただの変人」である。

メンツを潰された格好のノーベル文学賞の選考委員会はディランからの連絡など待たないで、異例のことではあるだろうけど(今年は受賞者なし、にせず)サッサと次の受賞者を発表すればいい。ま、ディランに懲りて来年からは「ノーベル文学賞が欲しくてたまらない人」に与えられることになるだろう。



posted by poohpapa at 06:14| Comment(12) | 文化・芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする