何度か当サイトで紹介している「霧の森大福」、今は休止しているけど、ふだんは月に一度「抽選で購入権が得られるシステム」になっていて、私も何度か応募したけど外れてばかり。昨年の11月に贈答品のお茶の中に入ったものを購入していて、ま、抱き合わせ販売で買わされた形。
今月25日(月)から31日まで、ネットで先着順で毎日500箱の注文を受けるとか。販売予定は、
【期間・販売時間】
1/25(月)19時〜24時 済
1/26(火)10時〜24時 済
1/27(水)19時〜24時 済
1/28(木)10時〜24時 済
1/29(金)19時〜24時
1/30(土)10時〜24時
1/31(日)10時〜24時
まだ4回チャンスが残っています。一度の応募で3箱までで、私は、昨日3箱購入できました。
この後も2度ほど購入したいと思っています。こんなふうに教えてしまうと、ネットで注文画面に繋がらなくなったりするかもだし、もう購入できなくなることも考えられますが、かまいません。食べたい方、自分で挑戦してみてください。ほんと、アッと言う間に(その日の販売予定分は)売り切れます。
購入の申し込みは、以下から ↓
https://wowma.jp/item/3900057?spe_id=top_latest_pr_2
時間前にクリックして画面を見ると「販売が終了しました」と出ますが、10時ちょうどとか19時ちょうどとかにクリックすると、ちゃんと注文画面になっています。ちなみに、一箱8個入で、大福と言っても一口で食べられるほどの大きさ(小ささ)です。その代わり、めっぽう美味しいですけど。
うちのに訊いてみないと分かりませんが、岩手のご実家に一箱お送りしたいな、と思っています。義父が脳梗塞で一時的に施設に入っていましたが来月の頭に帰宅するようなので。
とにかく、霧の森大福、食べたい方は自力で購入してくださいね (^◇^)
2021年01月28日
拡散希望、ということでご協力、私も同感だから
いつもの「NPO法人 百人の会」のメルマガから
川内時男先生の活動報告(基)
(元徳島県公立中学校校長)
1/24 78、当たり前の教育を当たり前に(拡散希望)
私の投稿を読まれている方の中には「この爺さん、一体いつの時代に生きているつもりだ?」「時代に取り残された化石のような人物」と笑っている人もおられることでしょう。そう、多分私が訴えていることなどは教育界では一笑に付されるに違いありません。それは私自身十分承知しております。
しかし、教育界から一歩外に出て、世間一般の人に聞いてもらって下さい。そうすれば教育関係者の言うことより、私の言っていることの方が遙かにまともだと分かるはずです。と言うことは教育関係者の考えていることがいかに世間からずれているかと言うことです。
フェイスブックに投稿していますといろんな方からご意見をいただきます。その中に「教育を難しく考えすぎる、もっとシンプルであるべき」との意見がありました。私はこれに全く同感です。本来、教育とは誰にとっても分かりやすいものであるはずです。当然です。多くの国民は子供時代に先生や親から教育を受け、そして大人になってからは子供を育てるなどして教育に関わってきました。そう言う体験をする中で教育に対する考えを持っています。
つまり実体験の中で培われてきた教育論を持っているのです。実体験に基づく教育論ほど確かなものはありません。教育学の書物を読んだり、欧米の教育を勉強して身につけた「机上の空論」よりずっと正しいのです。
多くの人達が経験値の中で身につけた教育論は極めてシンプルです。何も難しくありません。よいことをすれば褒められる、悪いことをすれば叱られる、甘やかしてはいけない、しっかり勉強させるなど、ほとんどはこういうシンプルで分かりやすく「当たり前」なものばかりです。
事実、子供には当たり前の教育を当たり前にやっていれば当たり前に育つのです。
ジェンダーフリー教育のようなおよそ「当たり前」からかけ離れた教育は無用なのです。第一そんな教育を望む親がどこにおりましょう。
ところが学者や評論家が「悪いことをする子は何かストレスを抱えているに違いない」とか、「教え込んでは創造力が育たない」「子供の心を傷つけるな」「褒めて育てよ」「子供の自主性・主体性を」、果ては「怒るのではなく、叱ること」などと言うものですから混乱するのです。このような視点も大事ではありますが、それに傾きすぎると「当たり前」の教育が当たり前に出来なくなるのです。
学校が最も大事にすべきことは、
@子供が安心して勉強できること、
A先生がしっかり教えること、
Bえこひいきしないこと(実がこれが最も子供の信頼を失います)の三点です。
これさえ肝に銘じておけば、他のことは少々不足していても何とかなるのです。 要するに教育関係者は頭でっかちになっているのです。
「○○教育」などの聞き慣れない言葉を持ち込み、教育を複雑にしているのです。ひょっとすると学者先生達は自分たちの教育論を権威づけるために、わざと難しくしているのかも知れません。
要するに科学的裏付けのない役に立たない教育論や知識を頭いっぱいにため込み、それにとらわれ、振り回され、その一方で大事な基本的なことを忘れているのです。欧米教育を真似て今風な教育をするより、今一度頭をリセットして教育を原点から見つめ直してはいかがですか。
進歩派、と言われる人たちからは「時代錯誤」だの「時代遅れ」だの「もう通用しない考え」と言われるだろうけど、似非進歩派の教育評論家が言う「時代錯誤」等々の言葉は、さも「自分たちこそが古い教育を改めて時代に合った正しい教育をしている先駆者」と思わせるテクニックにすぎない。
そう言えば、私の小学校時代は「えこひいき」する教師が多かったなあ・・・、今はどうなんだろ。
でね、常日頃から言ってるけど、ジェンダーフリー信奉者は気違い。ダブルスタンダードで、言ってることは「ご都合主義」で矛盾ばかり。先日、地元の小田原潔衆議院議員(自民)の事務所に行って、「先生は選択的夫婦別姓とかLGBTに理解を示していますか?」と秘書の方に訊いたら、「真っ向から反対です」だと。良かった・・・、「はい」と言われたらもう支持しないつもりでいたから (^◇^)
ところで、私は、中学時代の恩師と、卒業して53年も経った今も交流させて頂いている。それは、先生が「どんな生徒にも平等に接してくれたから」に他ならない。優等生も劣等生も横道に逸れてしまった奴も、先生にとっては同じ教え子だから、との信念からだろう。
この歳まで生きてきて私が一番自慢できること、それは、その中学時代の恩師(1年と2年の担任)と二人で、卒業して35年も経ってからトルコを旅したこと。そんな先生も教え子も、日本中を探しても私たちだけかも知れない。もちろん、そういう機会を与えてくださった先生には心から感謝していて、自分が死ぬ時にはきっと思い出すことだろうな。毎年、お互いに美味しいものを送り合っているし。
川内時男先生の活動報告(基)
(元徳島県公立中学校校長)
1/24 78、当たり前の教育を当たり前に(拡散希望)
私の投稿を読まれている方の中には「この爺さん、一体いつの時代に生きているつもりだ?」「時代に取り残された化石のような人物」と笑っている人もおられることでしょう。そう、多分私が訴えていることなどは教育界では一笑に付されるに違いありません。それは私自身十分承知しております。
しかし、教育界から一歩外に出て、世間一般の人に聞いてもらって下さい。そうすれば教育関係者の言うことより、私の言っていることの方が遙かにまともだと分かるはずです。と言うことは教育関係者の考えていることがいかに世間からずれているかと言うことです。
フェイスブックに投稿していますといろんな方からご意見をいただきます。その中に「教育を難しく考えすぎる、もっとシンプルであるべき」との意見がありました。私はこれに全く同感です。本来、教育とは誰にとっても分かりやすいものであるはずです。当然です。多くの国民は子供時代に先生や親から教育を受け、そして大人になってからは子供を育てるなどして教育に関わってきました。そう言う体験をする中で教育に対する考えを持っています。
つまり実体験の中で培われてきた教育論を持っているのです。実体験に基づく教育論ほど確かなものはありません。教育学の書物を読んだり、欧米の教育を勉強して身につけた「机上の空論」よりずっと正しいのです。
多くの人達が経験値の中で身につけた教育論は極めてシンプルです。何も難しくありません。よいことをすれば褒められる、悪いことをすれば叱られる、甘やかしてはいけない、しっかり勉強させるなど、ほとんどはこういうシンプルで分かりやすく「当たり前」なものばかりです。
事実、子供には当たり前の教育を当たり前にやっていれば当たり前に育つのです。
ジェンダーフリー教育のようなおよそ「当たり前」からかけ離れた教育は無用なのです。第一そんな教育を望む親がどこにおりましょう。
ところが学者や評論家が「悪いことをする子は何かストレスを抱えているに違いない」とか、「教え込んでは創造力が育たない」「子供の心を傷つけるな」「褒めて育てよ」「子供の自主性・主体性を」、果ては「怒るのではなく、叱ること」などと言うものですから混乱するのです。このような視点も大事ではありますが、それに傾きすぎると「当たり前」の教育が当たり前に出来なくなるのです。
学校が最も大事にすべきことは、
@子供が安心して勉強できること、
A先生がしっかり教えること、
Bえこひいきしないこと(実がこれが最も子供の信頼を失います)の三点です。
これさえ肝に銘じておけば、他のことは少々不足していても何とかなるのです。 要するに教育関係者は頭でっかちになっているのです。
「○○教育」などの聞き慣れない言葉を持ち込み、教育を複雑にしているのです。ひょっとすると学者先生達は自分たちの教育論を権威づけるために、わざと難しくしているのかも知れません。
要するに科学的裏付けのない役に立たない教育論や知識を頭いっぱいにため込み、それにとらわれ、振り回され、その一方で大事な基本的なことを忘れているのです。欧米教育を真似て今風な教育をするより、今一度頭をリセットして教育を原点から見つめ直してはいかがですか。
進歩派、と言われる人たちからは「時代錯誤」だの「時代遅れ」だの「もう通用しない考え」と言われるだろうけど、似非進歩派の教育評論家が言う「時代錯誤」等々の言葉は、さも「自分たちこそが古い教育を改めて時代に合った正しい教育をしている先駆者」と思わせるテクニックにすぎない。
そう言えば、私の小学校時代は「えこひいき」する教師が多かったなあ・・・、今はどうなんだろ。
でね、常日頃から言ってるけど、ジェンダーフリー信奉者は気違い。ダブルスタンダードで、言ってることは「ご都合主義」で矛盾ばかり。先日、地元の小田原潔衆議院議員(自民)の事務所に行って、「先生は選択的夫婦別姓とかLGBTに理解を示していますか?」と秘書の方に訊いたら、「真っ向から反対です」だと。良かった・・・、「はい」と言われたらもう支持しないつもりでいたから (^◇^)
ところで、私は、中学時代の恩師と、卒業して53年も経った今も交流させて頂いている。それは、先生が「どんな生徒にも平等に接してくれたから」に他ならない。優等生も劣等生も横道に逸れてしまった奴も、先生にとっては同じ教え子だから、との信念からだろう。
この歳まで生きてきて私が一番自慢できること、それは、その中学時代の恩師(1年と2年の担任)と二人で、卒業して35年も経ってからトルコを旅したこと。そんな先生も教え子も、日本中を探しても私たちだけかも知れない。もちろん、そういう機会を与えてくださった先生には心から感謝していて、自分が死ぬ時にはきっと思い出すことだろうな。毎年、お互いに美味しいものを送り合っているし。