川内時男先生の活動報告(基) (元徳島県公立中学校校長)
79、凶暴化する人権(拡散希望)
以前も申し上げましたが、近年の我が国の国力衰退はひとえに欧米教育を真似てきたことによります。なぜなら、欧米の教育は日本人の体質に合わないからです。これについては以前から何度も申し上げてきましたので、これまでにしておきます。
しかしここで大事なこと・・・それは海外から何かの文化を持ち込むときには、それが我が国の風土、即ちお国柄に合うかどうかを熟慮し、慎重にするべき、と言うことです。拙速に持ち込めば古くから我が国に根づいていた文化を荒らしてしまうからです。ジェンダーフリーなどはその典型でしょう。
ところで、近年はやたらと世間がギスギスしてきたとは思いませんか。些細なことで「人権侵害だ」「プライバシーの侵害だ」「セクハラだ」「パワハラだ」「差別だ」などの言葉が飛び交い、加えて「○○権」などの言葉が雑草のようにはびこり、うかつにものが言えなくなりました。うっかり口を開いて失言でもしようものならたちまち噛みつかれます(まるで今の野党議員のようです)。心なしか私には人々の顔が尖って見えるようになりました(蓮○議員などはその典型)。
こんな社会では人々は、世間から「口撃」されないようにするには人との関わりをもたないのが一番と考え、建前論ばかりが横行するようになります。当然人間どうしのつながりは希薄になり、温かさが失われていきます。これも我が国に持ち込まれた人権が過激化したことが原因・・・と言いたいところですが、まさか人権そのものが悪いはずはありません。なんと言っても人権は人類普遍の価値観です。これを否定するならご近所にある国と同じです。
では何が悪かったのでしょう。人権が暴走し、人権という言葉をかぶせればどんな無理筋でも通る、という「人権原理主義」になったからです。こんなものが社会にはびこりますと、本来人間を幸福にするはずの人権が、無機質で窮屈な社会を作ることになります。
江戸の庶民は人権の概念がなくとも、九尺二間の裏長屋で心豊かに暮らしていました。板きれ一枚で仕切られた棟割長屋ですからプライバシーなどないも同じです。それでも現代人よりずっと心豊かでおおらかに暮らしていたそうです。なぜこんなことが出来たのでしょう。それは江戸の社会には「人権」より温かい「義理人情」があったからです。
「義理人情だと?古くせぇ、わははは・・・」の声が聞こえてきそうです。ではかっこよく言い換えましょう。「ジャパニーズ・トラディショナル・ヒューマニズム」ではいかがですか(笑)。
誤解しないで下さい。私は「人情があれば人権など要らぬ」と言っているのではありません。欧米直輸入の人権を、我が国のお国柄にあうような温和な人権にすべき、と言っているのです。マスやイワナが棲む美しい渓流に獰猛なブラックバスを放てば、たちまち渓は死んでしまいます。調和のとれた美しい日本の社会にはブラックバスのごとき獰猛な人権は似つかわしくないのです。凶暴な人権ががはびこっては日本人の品格が失われるのです。
(原文のままですが、適宜改行させて頂きました)
まさに、私が普段から言っていることと同じですね。違うところは、先生のほうが文章に品があって、例えが的確である、ということでして・・・。でも言わんとすることは全く同じです。
誰もが異論を唱えにくい「人権」だの「社会的弱者」などという言葉を盾に議論を展開する奴、自分の主張を押し付けてきたり一方的に譲歩を迫る奴らは社会のクズだと思っています。私は、「人権があ」 「不平等でえ」と言われても、「それが何!?」と言い切ってしまいますが。
過度な人権は、時に暴力になります。逆差別を生み、民主主義を破壊することさえあります。「人権」が反社会的活動家に利益をもたらし、程度の問題とか優先順位が御座なりにされるのですから。
学校でしっかり教育してほしいものですが、悲しくなるくらい今は教師の質が落ちていると実感します。個別の事案に対してでなくても、せめて「与えられた情報が真実かどうか、何が正しくて何が間違いなのか」先ずは自分の頭で考える習慣を身に着けるよう教えてもらいたいですね。