1月28日付で、「拡散希望、ということでご協力、私も同感だから」という記事を書いていて、これはその続編。元々の記事は、元徳島県公立中学校校長の川内時男先生が書かれたもの。この後も続編が書かれると思う。今、川内先生とは Facebook でもお友だちになって頂いていて、先日、Facebook で続編を拝見して、それをブログの記事で紹介したかったのだけど方法が解からない。それでコメント欄からマスキ先生にお願いして全文を入手させて頂いた次第。
80、「人権」の乱発と大安売り!(拡散希望)
前回の投稿を読まれた方の中には私のことを人権否定論者のように思われた方もおられるのではないでしょうか。とんでもない誤解です。今の時代に人権が無用などとはゆめゆめ思いません。世界には今日の食料にも事欠く人がいたり、またチベットやウィグル自治区には圧政に苦しむ大勢の人達がいます。こういう人達が地球上にいる限り、私達は世界に向けて人権尊重の声を上げ続けなくてはなりません。
ところで人権という言葉についてですが、私はこの言葉は人間が生命の危険に曝されてとか、あるいは人としての尊厳が踏みにじられているような時にこそ使われるべきだと思っています。また、そういう人達の言う「人権」であれば世界中の人が納得し、共感するでしょう。しかし衣・食・住が曲がりなりにも満たされている我が国において、なお声高に人権を主張するのには違和感を覚えます。
いつのことだったか忘れましたが、日本の高校生が国連事務所に行って「私達は制服を着ることを強制されている、人権侵害だ」と訴えたところ、国連の人から「世界には制服どころか、服を買うことさえ出来ない人がたくさんいるのですよ。」と笑われたそうです。しかし教育界を観てみますと、こう言う笑い話のようなことがたくさんあるのです。
その一例・・・私は子供と書くとき、「子供」と正しく表記します。しかし教育界ではこれは禁じられています。教育界だけではありません。
世間では今「子供」ではなく「子ども」と交ぜ書きするのが通例です。新聞業界でも、産経新聞以外のほとんどのマスコミは「子ども」です。
学校はどうかって?当然「子ども」です。「子供」などと書こうものなら人権感覚を疑われ、直ちに書き直しさせられます。
理由をご存じでしょうか。二つあります。
一つは「子供という字の『供』は殿様が家来を連れて歩くときの『供』を意味する。子供を見下しているからけしからん。」というものです。
もう一つは「『供』と言う字はお供え物の意味である。子供をお供え物に例えるなど人権侵害だ」というものです。
それギャグで言っているのか?と言いたくなるほどの屁理屈です。多分どこかの三流教育学者が言い始めた屁理屈でしょうが、何であれ教育界ではこれが当たり前なのです。ということで「子供」と書く人間などは私のような頑固ジジィか、よほどの信念を持った人しかいません。因みに私の手元にある三冊の国語事典には「子供」はあっても「子ども」はありません。このように人権が暴走すると正しい日本語まで踏み荒らされてしまうのです。
話がそれてしまいましたが、要するに些細なことで「人権」の言葉を乱発しないでいただきたいと言うことです。今の人権はそのほとんどが自分の立場を有利にするか、あるいは気にくわない相手をへこませるための道具にしか使われていません。日常の些末な問題は人権問題ではなく、モラルの問題として扱われるべきです。
川内先生の見識は素晴らしいと思う、こんな先生がいらっしゃったんだ・・・、と感動さえ覚える。こんな先生がもっと多くいらっしゃったならなあ・・・、と残念に思うほど。今の教育現場のことはよく知らないが、今の世の中の荒れ方を見れば酷いモンであることは容易に想像がつく。
私が敬愛する中学時代の恩師、政治的には私と真逆のよう。私に「安倍さんは危ないぞ〜」とか「第二次大戦は日本の侵略戦争だった」とか、愛知トリエンナーレ問題で「大村さんは間違っとらんだわ、河村さんのほうが間違っとるだて」と仰っているので。それでも私が恩師を一生の師として慕っているのは、先生が出来の悪い生徒も優秀な生徒も横道に逸れてしまった生徒も、同じ愛情で接してくださっていたことと、私が起こした授業ボイコット問題で、先生が職員室の真ん中で「俺が悪かった、明日から授業を受けてくれ」と私に頭を下げてくださったから。
以前も書いたけど、先生は間違っていなかったと思う。にも拘らず、事態を収拾するために職員室の真ん中で私とK君に頭を下げた。その時に、「ああ、俺は大人に、目上の人に恥をかかせてしまった。誰が生徒なんかに頭を下げたいものか。俺はこの先生に一生ついていこう」と思った。先生の頭の中には、私とK君だけでなく、授業が止まっているクラス全体のことがあったんだろう。
「日本の侵略戦争だった」との言葉は、ベトナム戦争が終結する10年以上前に「アメリカが逃げ出す」と予言していたり、ユーゴスラビアの内戦勃発を20年以上前に予言していた先生の言葉とは思えないのだけど、そんなのを差し引いても、私は先生を慕っている。
一つ考え方が違うだけで排除したりはしない。と言っても、私が特に大事にしている事柄に対して「これは赦せない」という考え方の違いがあれば排除する(もう付き合わなくなる)ことはあるけど。
で、川内先生のご意見は心に沁みる、特に最後の3行。ぜひ、お読みになって頂けたらと思う。
続編が出たら、また紹介させて頂きたい。
※ コメントの返信、少しお時間をください、少しずつ返信させて頂きます。すみません。