2022年01月15日

私が大切にしている言葉

毎日毎日、いろんな訃報に接していて、その享年を気にして見ている、という話は以前も書いたけど、私が高校時代からの大親友であるMちゃん(女子)から言われた言葉が私にとっての宝物になっている。

「人間、死ぬ時が幸せならその人の人生は幸せで、死ぬ時が不幸ならその人の人生は不幸だったのよ」、という言葉。

注釈を加えると、

「人間、死ぬ時が幸せなら、その人の人生は(途中で何があったとしても)幸せだったのよ。死ぬ時が不幸なら(それまでがどんなに幸せであったとしても)その人の人生は不幸だったと言える。幸せな人生かどうかは死ぬ時(最期;臨終の際)の状況で決まる」、ということで、一理あるどころか九理ある。

例えば、超一流大学を出て、出世して、事業が成功して、何不自由なく暮らしていても、ダンプカーが突っ込んできてペチャンコになったり、孤独死してしまったなら、その人は不幸。逆に、学歴も地位も資産も無く、近場の温泉にさえ行けないほどに貧乏であったとしても、亡くなる時に家族や多くの友人が集まってくれたなら、自分から見ても他人から見ても幸せだったんだと思う。

私自身はどうなのかなあ・・・。当然「どういう死に方をすることになるか」は分からないけど、35回も海外旅行に行って、国内も周り、最高の女房に恵まれて、資産は無いけどそこそこ贅沢な食生活を送り、多くの友人知人がいても、臨終の枕元や葬儀に誰も来てくれなかったりしてね (ありそう ^-^;

以前も書いたけど、俳優の佐藤蛾次郎氏の父親が、大坂の下町で歯科医をしていて、亡くなった際に近所の人たちが10円玉を握りしめて告別式に来てくれたんだと。たぶん、経営は度外視で貧しい患者さんを助けていたんだろうね。それを見て、改めて父親を尊敬したんだとか。自分も、そういう不動産屋になりたいと思う。ファミレスや伊勢丹やスーパーのスタッフが手にチョコレートを握りしめて・・・、溶けるわ(爆

自分が周りから本当に慕われていたかどうかは死ぬ時に判るんだろうな。いや、死ぬ時にしか判らない。「終わり良ければ全て良し」というのは人生においても言えることかも知れない。

本音で言うと、私が死ぬ時に、(今の)うちのが傍にいてくれたら十分。それ以上は望まない。たったそれだけで、私は「幸せな人生だった」と心から思えるだろな。Мちゃん、素敵な言葉を有り難う。

posted by poohpapa at 08:02| Comment(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする