と言っても今のポストにしがみ付いている現職国会議員のことじゃないよ。例えとしては当たってるけど。
先ず、被災地の方々に心からお見舞いを申し上げます。この後も、どうぞくれぐれもお気をつけください。
さて、8月22日に発生した台風10号、1959年9月26日に近畿地方と東海地方に上陸した伊勢湾台風に並ぶ超大型台風。本来ならば、とっくに熱帯性低気圧になって消滅しているハズが、既に一週間ほど九州地方に留まっている。まるで母子家庭に強盗に入って子供を人質にして母親に「腹がへった、晩飯を作れ!」、「朝飯は海鮮丼を作れ!」などと要求している居座り強盗のよう。早く出ていってほしいもの。
何度か書いているけど、
私が小学2年の時に愛知県の半田市で被災した伊勢湾台風、5000人を超える死者を出し、私が通っていた半田小学校だけでも74人が犠牲になった。(8畳一間に6人が暮らしていた)うちの長屋も屋根まで冠水して、水が引くまでしばらくは、親父が勤めていた「縄を作る工場」の屋根裏で過ごした。縄の原材料の藁が布団代わり。2週間ほど経って「何も持たなくていいから明日登校するように」と連絡があった。
学校に行くと、先ず体育館(講堂)に入らされ、舞台にズラッと並ぶ遺影と花を見てもの凄いショックを受けた。その中には、台風の当日、「今日は大きな台風が来るので授業は午前中でおしまい。近くの家のお友だちと一緒に下校するように」と言われて私が一緒に帰った友だちも入っていた。私の家より海に近かったし、しかも後で分かったことだが、自宅の庭の木に弟を庇うように抱きついて亡くなっていたとか。
伊勢湾台風と今回の台風10号、圧倒的に死者数が違うのは、建物の構造上の進化と、災害に対する意識(心得)の違い、だと思う。その頃はテレビもネットも無いから詳細が分からず、情報はラジオからだけ。回覧板は間に合わないし。当時は、割と新しい堤防が決壊する、などとは夢にも思ってなくて・・・。なので予め用意した避難所なんか無く、食べるものとか学用品は全国から送られてきた救援物資で凌いだ。
この歳まで生きてきて、今まで食べた物の中で一番美味しかったのは、米軍からの救援物資のコンビーフの缶詰。調理せずそのまま食べたんだけど。後にパリの三ツ星レストラン「タイユヴァン」で食べた「ブルターニュ産オマール海老のブーダン」に匹敵する。ま、極限まで空腹だったから、かも知れないけどね。
私が今、さまざまな災害が発生した際に、その都度「ヘソクリ」の全額を義援金として被災地に送るのはその時の体験から。あの時に助けて頂いたから今の自分がある。今こうして生かせて頂いているから。
ところで、昨日、伊勢湾台風について調べていく中で、こんな記事に出会った。
伊勢湾台風、小2の記憶 南知多・山下さんが文章に
2020年9月27日 05時00分 (9月27日 14時39分更新)
この山下さん、当時、半田小学校に通っていて2年生だった、ということは、存じ上げなかったけど、私の同級生なんだね。一学年で300人以上いて、私は2年5組(担任は浅野先生)だったけど、何組だったんだろう。昨年11月に半田中学校時代の最後の学年同窓会を開いたけど、もう一度集まって伊勢湾台風の記憶(真実)を風化させないための記録を完成させたら後世に役立つかもね。もう必要ないかなあ??