私は時代劇が好きでテレビでもよく観ている。
子供の頃、近所に、夏の間だけ土曜日の夜10時から「ナイトショー」と称して、安い料金で、ちょっと前の時代劇を一本見せてくれる映画館があった。親父とお袋に手を引かれて家族全員で出かけるのが、釣りと並んで、貧しかった家族の数少ない娯楽になっていた。テレビなど家に無い頃の話で、物心つく前から時代劇に親しんでいたことになる。
だが、子供の頃から疑問に思っていたことがある。主人公が何十人もの敵をバッタバッタと斬り倒すこと、である。いかに名刀と言えども、1本の刀で斬れる人数は実際には数人であると聞いていた。刃の表面に油がのってしまうのと、刃こぼれするからだ。現実は、数人斬ったら、後は「刺し殺す」ことになる。なのにいつまでも斬り続けている。
だいいち、背後に仲間が数人いるのに、仲間が斬られるまで順番待ちしているのは不自然である。そう、悪代官は私と同類だから、ついつい肩入れしてしまう(爆)
それが宮本武蔵でも塚原ト伝でも、私なら2人仲間がいれば必ず倒すことができる。3人が120度の角度で囲み、「1、2の3」で同時に刀を突き出せばいかな達人といえども防ぎ切れるものではない。1人2人は死ぬかもしれないが、どうせ全員が殺されるならやってみる価値はある。もちろん背後の位置は私である、まだ死にたくはないから。
一説によれば、「剣の達人は、致命傷を負わせるほど深くは切らない。腱などを切断して戦意を喪失させるだけで充分。刀の損傷も最小限に防げる」、とのことだ。
ところで、私も若い頃は時代小説など見向きもしなかったが、今は片っ端から読み漁っている。3年前の8月には、山岡荘八氏の「徳川家康」全26巻を、お店で仕事の合間に読破した。400字詰め原稿用紙にして積み上げると、150cmの高さにもなる量だ。いかにヒマな店であるかが分かろうというものだ^_^;
私は時代小説の中でも、池波正太郎氏の作品、特に「鬼平犯科帳」が大好きで何度も読み返している。「鬼平犯科帳」には他の時代劇には無い特徴があるからだ。それは、必ずしも「悪党を斬り殺して終わり」の勧善懲悪ワンパターンではない、ということだ。時として、盗人を捕らえても放してやったり、お目こぼしをしてやることもある。池波正太郎作品に共通したテーマ、それは「厳しさの中にある人の優しさ」であろう。
私は日常的に、「こんなに汚いのは俺だけじゃないか」、「なんて酷い人間性だろう」と自己嫌悪に陥ることがよくあるが、それを救ってくれたのが「鬼平犯科帳」である。その中には、「人間、皆、そんなもの」とか、(以前も書いたが)「人は善いことをしながら悪事を働き、悪事を働きながら善いこともする。そんな生き物なのさ」、という教えが随所にあって、「なるほど・・・」と思わされることの連続である。もちろん、だからといって「何をやっても赦される」などと都合よく解釈している訳ではないが、まさに「鬼平犯科帳」は私にとってのバイブルなのだ。とりわけ、第2巻中の「鈍牛」と、第5巻中の「兇賊」に、人の世の裏表、人情の機微、といった池波小説の真髄が凝縮されている、と言っても過言ではないと思う。「鬼平」ファンに人気作品のアンケートを取ったなら、おそらく「密偵たちの宴」が1位になるだろうが、私ならこの2作品、しいて選ぶなら「鈍牛」かな、と思う。
自己嫌悪でお悩みの方には、私は「鬼平犯科帳」をお読みになることをお薦めしたい。
私は「密告」と「名も知らず」が好きです
「密告」は私も好きですね。自分も3人の子どもを育てて、母親の気持ちが手に取るように解かります。「密告」は、親の心子知らず、の典型的な話でしたね。見終えた後で重い気分にはなりましたが。