なぜか、というと・・・、
子供の頃、私の住んでいた長屋の斜め前に、私の初恋の人が住んでいた。歳は私より一級上で、それが為に我が家はずいぶん助かった。
私の子供の頃は、義務教育であっても教科書は国から支給されておらず、毎年自分で買っていた。だが、うちはその教科書を買うおカネが無かった。それで、毎年、初恋の人の使っていた教科書をタダでもらっていた。仮に、その人の名前を「まり」ちゃんとしておこう。まりちゃんのお父さんは地方公務員で、うちと違って貧乏ではない。
私が小学2年の時に伊勢湾台風に遭って、近隣全部が屋根まで水に浸かったことから、数年後、まりちゃんは隣町に引っ越してしまったが、教科書だけは毎年届けてくれた。翌年は私に譲るのが分かっていたのだから、さぞかし使いにくかったに違いない。だが、私は義務教育を終えるまで、初恋の人のお下がりを使い続けることができた。
そんな人間はきっと日本中で私1人だろう。だから、ある意味「日本一幸せ」だと思う。
まりちゃんは、タレントでいえば「二木てるみ」(古い!)に似ていて、田舎の娘にしてはとても垢抜けていて品もよく、私は、大きくなったら絶対まりちゃんをお嫁にもらうつもりでいた。一度だけ「ママゴト遊び」で夫婦になった時には天にも上る心地だった(早熟)
高校に進んで半年経った頃、親父がパチンコで稼いだのか、私にカバンを買ってくれた。私はカバンを持っておらず、それまで毎日ナップザックで登校していたのだ。
だが、その一週間後、まりちゃんがお母さんと連れ立って、まりちゃんのお姉さんの使っていた牛革カバンを届けてくれた。必然、親父が買ってくれたカバンはお蔵入りとなる。高校を卒業する半年前にはそのカバンもボロボロになったが、自分で修繕し修繕し、して、卒業までなんとかもたせた。
子供の頃からず〜っと憧れていたまりちゃんだったが、失恋は突然やってくる。
というか、私が小学3年のときに既に失恋はしていた。
うちの田舎は道路が広く、そのくせ車は滅多に通らないから、道路で野球ができた。
野球だけではない。毎年、その道路で「乳牛の品評会」までやっていた。
冬の近いある日、野球をする人数18人が揃わなくて兄貴から私にまで声が掛かった。私は運動が苦手だから逃げたかったが、兄貴は、「お前には球の飛んでこないライトを守らせてやるから心配いらん。ただ立っとったらええ」、と言われて渋々出かけた。行ってみると、本当に球は飛んでこない。当時は左利きの子供などいなかったから、ライト方向には全く打球が飛ばない。だが、それが悲劇を招いた。
木枯らしの吹く、だだっ広い道路で、することも無くボーッと立っているとどうなるか。
お腹が冷えてきてトイレに行きたくなる。いや、駆け込みたくなる。だが、交代要員はいない。だからこそ運動音痴の私が呼ばれている。兄貴には「トイレに行かせて欲しい」、とは言えない。いくら球が飛んでこないといっても、万一、ということがある。私は我慢した。ギリギリまで我慢した。それでも、もう限界になって、ピッチャーをやってる兄貴に、「にいちゃん、トイレ!」、と叫んで、家に向かって全速力で走った。両足を開かないよう、肛門を閉じるようにして走った。だが、家まであと10mというところで遂に力尽きた。そこから家の中まで、あとは「姥捨て山の道しるべ」よろしくポタポタと・・・。
この一部始終を、隣のおヨネ婆さんにしっかり見られた。大声で楽しそうに笑い始めたので、なんと向かいのまりちゃんが外に出てきてしまった。しかも、家の中から耳を澄ましていると、「これ、誰の?」、と笑いながら聞いている。
この時、幼な心にも、「僕の初恋は終わった」、とハッキリ分かった。その後はしばらく、まりちゃんの顔をマトモには見られなかった。この時ばかりは兄貴を恨んだ。
まりちゃんが隣町に引っ越す当日、私はすぐ上の兄貴と川沿いの道を一緒に送った。
途中、草むらでまりちゃんとお姉さんが、お花で腕輪を作ってくれた。今思えば、とっておけばよかったと思う。一生の想い出の品になったハズである。
カバンを届けて頂いて後、もう37年、まりちゃんとは会っていない。元気でいらっしゃるなら、是非とも何かの形でお礼がしたい、と願っている。
今なら、何の下心も・・・、いや、こだわりも無くお会いすることができると思う。
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