2004年07月21日

甦る「伊勢湾台風」の悪夢

北陸地方が大雨に見舞われて大変な被害を受けたが、私にとっては他人事ではない。

私が小学2年の時、私の郷里も台風による未曾有の災害に見舞われた。
昭和34年(1959年)9月26日・・・、「伊勢湾台風」である。

死者、行方不明者数5000名以上、「阪神大震災」の犠牲者数5500名にほぼ並ぶ。
私が通っていた小学校だけでも74名が亡くなり、クラスメートも2人亡くなった。
私が住んでいた地域がもっとも被害が甚大で、社会科の教科書に載っている写真も、たいていその地域の写真であって、見れば何処だか今でも分かる。

その日、いつもどおり登校はしたものの、「大きな台風が来るから」、と、すぐ全児童が下校した。家の方向が同じということで、私と一緒に帰ったのがS君である。

台風は私たち知多半島に暮らす人間にとって最悪のコースと時間を辿った。

深夜、家の外にあるトイレに行こうと目を覚ました私が見たものは、玄関に浮かぶ長靴だった。私が、「お父ちゃん、長靴が浮かんでるよ」、と親父を起こすと、「こらあ大変だ、堤防が決壊したな!」、と叫んで、急いで近所の家々を起こして回って、皆んなで高台にある工場の屋根裏に避難した。私たちは着の身着のまま全てを家に残して避難したが、それが生死を分けることになる。今のように正確な「気象情報」も無く、「避難勧告」も出されない時代の話である。親である大人たちの判断だけが総てだったと言える。何も持ち出そうとしなかった(できなかった)ことが幸いした。

工場の屋根裏はかなり広く、幸いにも藁で縄を作る工場だったので、屋根裏に藁の在庫がたくさんあって、皆んなその上に寝そべって、朝まで一睡もしなかった。私が親父に、「お父ちゃん、この工場がこわれたらボクたちどうなっちゃうの?」と聞くと、戦争にも行っていた親父は、「その時には皆んな死ぬことになるだろうなあ」、とアッサリ答えた。
私が「死を意識した」のはこの時が最初だった。その時一晩中聞こえていた暴風雨の音は、私にとってはまるで「悪魔の唸り声」だった。

工場まで非難する時、既に増水した川の水が溢れていたので、私たちは皆んな裸足であって、私は何かガラスのようなもので足の裏を切ってしまった。親父に、「お父ちゃん、足の裏を切っちゃったみたい」、と言うと、親父は黙ってしゃがんで背中を貸してくれた。厳しい親父だったから、「甘ったれるな!」、と叱られるかも、と思っていたが、あの時の「親父の背中」の安心感と心強さというものは一生忘れない。ハチャメチャな生き方をしていた親父であって、家族全員から嫌われてもいたが、私はあの時の「背中の思い出」だけで、たったそれだけで、親父の短所の全てが許せてしまう。

さて、完全に屋根まで浸かった私たちの家で生活が再開されるまでに2週間という期間を要した。片付けをするために久々に家に戻って、変わり果てた我が家を見た時には、ただただ涙が流れて立ち尽くしていたのを今でもよく覚えている。今、テレビから流れてくる北陸の映像と同じ、いやそれ以上であったと思う。

丁度半月経って学校から、「明日から学校を再開します。何も持たなくていいから9時に登校してください」との連絡がクチコミで来た。「持って来い」と言われても、あの晩着ていた寝巻き以外は何も無い。いち早く、被害に遭わなかった地方の皆さんから届けられた救援物資で、何とか生活を凌いでいたのである。

私が今まで食べた物の中で、一番美味しい、と思ったものは、パリの三ツ星レストラン「タイユバン」の「ブルターニュ産オマール海老のブーダン」だが、一番記憶に残る味は、その当時救援物資で頂いたアメリカ製の「コンビーフの缶詰」である。駐留米軍からの支援品だったそうな。もっとも、今食べたらきっと、「美味しい」とは思わないだろうけど。

さて、翌日学校に行くと、児童全員が先ず講堂に入れられた。正面の舞台には74人の遺影と花が飾られていて、初めて被害の大きさを知ることになった。その中に、台風当日一緒に帰宅したS君の遺影もあった。彼は私の家より更に海寄りに住んでいて、明け方になって遺体で発見された時には、庭にあった大きな木の上で弟を庇うように、弟と抱き合ったままの状態だった、と先生から聞かされた。S君が何をしたと言うのだろう。何度も言っているが、私が神を信じないのはそのことも大きく原因している。私は神を信じないだけではなく、(もし神が存在するのなら)神を許さない。たとえ、どんなに「傲慢」だと非難されようが、この考え方は一生変わらない。ただ、他人が何を信仰しようと干渉はしない。「何かに救いを求めたい」と思っている人を非難する気もないから。

私が今生きていられるのは、いくつかの偶然が重なったのと、多くの方々の善意のお陰だと思っている。北海道南西沖地震の際も、阪神大震災の際も、心ばかりの援助をさせて頂いたが、今回も自分のできる範囲で何か協力したいと思っている。

私は、今、「生かせて頂いてる」人間なのだから。
posted by poohpapa at 06:00| Comment(20) | TrackBack(1) | エピソード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
わたしも1950年生まれで名古屋の熱田区で台風にあいました。一晩屋根の上ですごしたことが思い出します。
晩御飯がお好み焼きだったようなきがしました。
私はほんとうに過去の事を覚えていないタイプなのでよくわかりませんが?妙な事だけ思い出すものです。
Posted by toru at 2004年07月21日 06:58
文章を読んでグッときました。
Posted by ZiZi at 2004年07月21日 08:06
toruさん、おはようございます

同じ被害に遭われているのですね。屋根の上で一夜を過ごしたのも、さぞかし怖かったことと察します。

子供の頃の記憶は、よほど強烈な出来事でない限り、そうは覚えていないものでしょう。というか、私の友人にも非常に学業優秀でありながら、過ぎたことは全く覚えていない人物がいます。それで当たり前なのかも知れません、腹も立ちますが。

お互い、残りの人生、有意義に送りましょう。
コメント、有り難うございます。
Posted by poohpapa at 2004年07月21日 09:13
ZiZiさん、おはようございます

伊勢湾台風は、ZiZiさんがお生まれになる前の出来事なんですよね。

私自身は本当に「いい体験」をしたと思いますが、そう思えるのも「生きていればこそ」ですね。

コメント、有り難うございます。
Posted by poohpapa at 2004年07月21日 09:17
伊勢湾台風。父から何度も話を聞かされました。
私の父はその当時、中学生だったか高校生だったかで、現在の中京高校
に通っていたそうです。
父の家は台風の浸水の被害にはあってないのですが、
学校が私立校であったために、名古屋市内、近郊に住む友人が
たくさんいたようです。
そうして、父の友人で、本人を除く家族を皆、台風で亡くした人の話を何度も聞きました。
父はその友人のことを、「そういう友達がいた」とまでしか話してくれません。
その後、少し、黙ってしまいます。
それがいつものパターンです。
私はその話を何度も聞いたせいか、水辺の低地に住むことをひどく嫌っています。
今回の新潟&福井の豪雨は、私は自分で浸水の様子を間近で見た
(JRに乗って)東海豪雨と比較して、その何倍だな、
というように考えていましたが、そうですか、伊勢湾台風を
想像されるくらいのものだったのですね。

今回の災害で亡くなられた方のご冥福を祈るとともに、生き残った方々にエールを送りたいと思います。
(そういえば、災害基金、って話、いつもだと聞くのに今回ほとんど聞きませんね)
Posted by いっこ at 2004年07月21日 10:28
いっこさん、こんにちは

今回の災害は台風ではありませんので、記録的な集中豪雨、と言っても、「伊勢湾台風」の比ではない(今回の方が規模が小さい)、と思います。現在のように、護岸工事の技術や予報の能力が格段に進歩しても、災害を未然に防いだり犠牲者を出さないようにすることは不可能なことなんですね。それは、自然災害は「天災」ではありますが、結果に於いては「人災」の要素が多分にあるからでしょう。

お父さんからしてみれば、「思い出したくない辛い経験」かも知れませんね。

ところで、義援金の受付は行われているようですよ。下記をご参照ください。

(日本赤十字社)

<a href="http://www.jrc.or.jp/sanka/help/news/614.html">http://www.jrc.or.jp/sanka/help/news/614.html</a>

他にも、NHKとか、いろんなところで行っているようです。
あ、是非寄付を、ということではありませんのでご了解を。

コメント、有り難うございました。
Posted by poohpapa at 2004年07月21日 11:12
僕も生まれる前のはず。

このコメントを読む前にちょうど自分のブログに書いたこともあるのでちょっと色々考えてしまいました。

僕は幸い浸水の経験は床上までだし、阪神大震災のときは部屋の中がしっちゃかめっちゃかになって、トイレにいけずベランダで用を足した(恥)程度ですが、今回のことも含め「天災」の被害を広げるのは「人災」の面が大きいというのはうなずけます。

>私は、今、「生かせて頂いてる」人間なのだから。
というのは、poohpapaさんだけでなく、僕も含めみんな思っていることだと思います。

相変わらずの支離滅裂な文ですみません。
Posted by どんたく at 2004年07月22日 00:59
どんたくさん、おはようございます

初めて、本当に初めて、どんたくさんのご意見に反論させて頂きます(笑)

>私は、今、「生かせて頂いてる」人間なのだから。
というのは、poohpapaさんだけでなく、僕も含めみんな思っていることだと思います。

私は、ほとんどの人が、「そうは思っていない」、と考えています。

もし、ほとんどの人がそう思っているなら、世の中もっと暮らし易くなっているハズだし、(個人レベルの)犯罪も、(国家レベルの)戦争も、テロも少なくなるハズなんですね。根本にあるのは「責任転嫁」なんですよ。

三菱自動車のトップにも言えることですが、「お客様のお陰」「社会のお陰」「社員のお陰」「取引先のお陰」・・・、じゃないから不祥事が起きるんですね。

自分を「生かせて頂いてる人間」だと思えるなら出来なかった(起こらなかった)こと、というものはたくさんあると思います。

いつもコメント、有り難うございます。
Posted by poohpapa at 2004年07月22日 05:44
poohpapaさん、おはようございます。
確かに「みんな」というのは語弊がありますね。
失礼しました。
ただこのことは、多くの人が意識上に昇ってないけど、大体の人がふとした
拍子にそれを思い出すと思います。だけどただ思い出しただけ。よくて今日一日は意識してすごそうと思う程度。
それを意識して生きている人ってのは少ないし、ましてそれを意識して行動に生かせる人なんてほんの一握りだと思います。
だから、こんな世の中になってしまったと私は善意に解釈しています。
あ、テロとか戦争の場合、相手は自分を生かせてくれている対象に入らないから仕方ないでしょう。
Posted by どんたく at 2004年07月22日 10:42
義援金を供出するのにはやぶさかでないのですが、日本赤十字社ってのは大丈夫ですか?
Webページを見ると、総務省なんかの天下りっぽいのですが・・・

>平成14年度は、職員5万4千人、平均年齢37.3歳、平均在職年数11.8年で、平均給与が42万3千円となっています。

なんて書いてあるし・・・
日本赤十字社(非営利団体)の給与(しかも平均)が、ばりばり利潤を追求している民間企業(弊社)の給与より、ガッツリ高いのですが・・・
雀でももっと泣くだろうといううちの給与明細を見せると、寄付はことわられるんじゃないかと心配。(^^;)
まさか、寄付金から日本赤十字社の一般管理費や人件費とかは引かれていないと・・・思うのですが、ねぇ・・・

困っている人を助けることを否定しているわけではないですよ、念のため。
さすがにそこまではひねくれていないので。
寄付金とかの決算報告書って見たことあります?
Posted by ハリケーン at 2004年07月22日 18:30
寄付金というのは、かなり怪しいもののようですよ・・
組織費で大半が消えるとか・・組織の利権と名であるとか・・
一番必要としている人のところへはまず届かないとか(上が吸収してしまう)・・
そーいえば、あの赤い羽でもいろいろ聞きますね。
というわけで、わたしは寄付はあまりしてないよーな^^;
必要な人のところへちゃんと届くのであれば、喜んでするですが。というか、したいのですが・・どこへすればいいのか分からない??。
まっとうな募金もあるのに、いかんせんおかしなのが多すぎて見分けがつかない・・(汗)。

伊勢湾台風、祖母から聞いたことがあります(かつて名古屋在住)。夫(祖父)は戦死しており、娘(わたしの母)はまだ小さく、障害のあった姉を抱えて大変であったと話してくれました。ただ、浸水は比較的少なかったようで、poohpapaさんのお話に大変衝撃を受けました。もちろん教科書にも載っていましたし、習ってはいるのですが(しかも直接聞いてるのに)・・・ずーーん。反省。

阪神大震災の時、わたしは大阪にいました。大阪はまだまだ大したことなかったのですが、神戸は本当に凄まじかったようです。お医者さんは三日三晩不眠不休で働いたそうです。けがや病気の手当のため・・ではなく、ほとんどが検死のために。小学校の体育館に青シートが敷かれ、その上一面に並べられた遺体を端から検死していったそうです(大半は圧死だったようです)。本来は警察の仕事ですが、警察も手一杯なので、ボランティアで皆やったとか。それを聞いて、なぜメディアはそれを伝えなかったのだろうと思いました。凄まじすぎて規制がかかったのかもしれませんが・・それこそがメディアの役目ではないかと。さすれば、どれほどのものであったか、多少は伝わるでしょう。物見高い報道に(テレビなど)怒りを覚えたのを記憶しています。でも、比較的近い大阪でもそうでしたからねえ(無神経な発言がいろいろ)・・・被害の大きかった地域の人々の怒りはいかばかりかと・・。
アレ?何か話がずれたよーな^^;すみません・・・
poohpapaさんや、ここに来られる方のように、気遣いの方に会うとほっとします??。
Posted by うし at 2004年07月22日 20:07
どんたくさん、改めて、こんばんは

まあ、1勝1敗、ということで(爆)

そうですね、犯罪と戦争、一緒にしちゃいけませんでしたね^_^;

基本的には私も「人間性善説」(希望的観測)なんですが、「生かせてもらっている」と思ってるかどうかだけ考えれば、ほとんどが思ってはいないかと・・・。

改めてのコメント、すみませんでした。
Posted by poohpapa at 2004年07月22日 21:11
ハリケーンさん、再びこんばんは

私は報告書的なもの、ざっと見たことはありますね。80%以上が経費でした(寒ッ!)

私は中学の時に、同級生が私の財布から500円札を1枚取り出して募金箱に入れてしまったので、「死ぬまで募金の協力はしない」と心に誓っています。ただし、災害の義援金だけは別です。例え全額が届かなくても、何もしないより良い、と思えます。

ところで、平和な民主主義国家の日本でさえこの有様ですから、彼の国で、庶民に救援物資が届かないのは当たり前なのかも知れませんね。

いつもコメント、有り難うございます。
Posted by poohpapa at 2004年07月22日 21:22
うしさん、こんばんは

たしかに、赤い羽根の経費は8割以上で、10円しか寄付しないのなら赤字であって、20円でやっとツーペーとか。あの羽根、全く無駄だと思います。付けてるのもただの優越感、とさえ思います。駅前や商店街で募金活動が始まると、私なんか遠回りしてしまいます。目的地に最短距離で行けなくなってしまうのです。ある意味、とても迷惑です。

商店街で一括で寄付して、羽根だけ届けられたりしますが、つけるの忘れた日には、募金活動の子供たちの前を通れません。そうか、羽根を付けるのは、「私はもう寄付したんだから声を掛けないでくれよ」、という意味があるんだ・・・。なんて、初めて知ったようなこと書いてますが、ホントは机の引き出しに、ずいぶん昔の赤い羽根が1本入れてあって、毎年10月1日になると出して、駅前に行く時に必ず付けて行きます。それだけで堂々と歩くことが出来ます(セコ)

私は寄付金を出すのが嫌なのではありません。僅かばかりの募金で、善人面するのもされるのも嫌なのです。でもって、災害の義援金は別、というのは、私の場合、胸を張って「できるだけのことをさせて頂きました」、と言える(思える)から、なのです。

うしさんが心配されるように、募金のシステム、とくに透明性に関しては、大いに改善の余地がありそうですね。

うしさんも、いろいろ体験なさっているのですね。うしさんのお父さんやお母さんの世代なら、どこで生まれて育ったとしても、何がしかの災害経験はお有りだと思いますね。お話が聞けたなら、とても良い勉強になると思います。

コメント、有り難うございます。
Posted by poohpapa at 2004年07月22日 21:45
poohpapa様こんにちは
私1955年生まれで、伊勢湾台風は「伝説」みたいな
おっかない台風だと感じてたかも、、、
私自身住んでいた海運会社の寮も、台風の度屋根が飛んでしまった事2度!
木造モルタルでも屋根は20mくらいあっただろうに、
子供心に、そのままの形で飛んでいったと思っていました(無邪気)
台風が来ると表から窓に板を釘で止めて窓ガラスを保護していました。
大人たちが言うには、窓が破れると風が入って家を持ち上げてしまうのだとか、、、
結局家自体は残りましたが、床上浸水2回経験しました。
カッパを着て親に手を引かれ、「痛い雨粒」を顔面にうけながら、
会社の社屋に避難したり、鉄筋コンクリートの近所の親戚の家に
避難した記憶があります。
家がボロボロになって、大人たちが途方に暮れているのを
尻目に、台風一過抜けるような晴天に無邪気にはしゃいで、
水に浮かぶ畳に乗って遊ぶアホな子でした。

話は寄付になりますが某ユ○セフも寄付を食いつぶす事は
周知の事実でして、、私、募金には手を着けず、そのまま
現地に(寄付先は厳正に吟味している)送るボランティア団体
のペシャワール会には何度か寄付しましたが、、、
赤い羽根嫌いです、
「お母さんがいない人は白い羽根」をうちだしたそのセンスに
思い切りヒいてしまいましたので、、、
Posted by 街のクマ at 2004年07月25日 12:04
街のクマさん、再びこんにちは

災害は、できれば経験しないですめばそれに越したことはありませんが、経験をしていると、その後の人生を強く生き抜くことができますね。「今以下」を知っているからです。ですから、その時は辛いけど、後では役に立ちます。

寄付は、正直なところ、あまり好きではありません。「うちの家自体が貧しいのに、何でヨソ様を助けなくちゃいけないの?」、という感覚がありまして、「こんなの本来は国がすることじゃない!」と、どうしても思ってしまうのです。集めたカネを無駄に遣ってしまうところは年金や郵貯と同じですね。

寄付に応じない人は「冷たい人」という目で見られたりするのも納得いきません。

ただ、かつての自分と同じく災害で苦しんでいる人たちに対しては別ですが。

コメント、有り難うございます。
Posted by poohpapa at 2004年07月25日 14:25
私は1959年4月生まれ。
伊勢湾台風来襲時は生後5ヶ月の赤ん坊でした。

名古屋市南区に住んでいまして、市内で最大の被害を受けた
所です。
当時、両親と私を含めた4人の兄姉は、天井付近まで浸水した為に天井裏に非難したのですが、停電と情報のない状況の中で
咄嗟の判断が生死を分けたと、後に聞きました。
それは数十秒決断が遅れていれば、家族全員遭難していたと言うのです。

よほど怖ろしい経験だったのか、あまり詳しいことを両親は
語りたがりません。
Posted by げし at 2004年12月18日 23:50
げしさん、おはようございます

私の経験と、げしさんのご両親の体験は良く似ていると思います。きっと、体験してない方には想像がつかないものでしょう。私も、子供心に死を覚悟しました。それ以来、逆に、今生きていることは「おまけ」くらいに思っています。

私は、あの晩避難した時の様子を今でもハッキリ覚えていて、機会があるごとに人にも話したりします。何せ、「貴重な体験」ですから^_^;

これは、「私が当時子供だったから」なんでしょう。大人の苦労は子供の比ではありません。ご両親も、「水が引いた後の苦労話」は特にしたくないと思いますね。うちの両親もそうでしたから。

いつかゆっくりご両親からお話を伺ってみてください。きっとお役に立ちますから。

コメント、有り難うございます。
Posted by poohpapa at 2004年12月19日 07:33
こんにちわ^^

お返事有り難うございます。

追記ですが、被害当時のようすをまとめた
写真集を観たことがあります。
まだ小学生の頃ですが、天白川堤防に筵が被せられた死体が、ずらりと並べられた写真でした。

今は取り壊されてしまいましたが、20年前まで住んでいた南区の家の柱には、浸水の痕跡があり
それは床から2メートルを越すものでした。

興味本意で当時の話を聞き出そうとする私に対し
両親は周囲の人達の助け合い精神を強く感じたことだけを強調するだけでした。

当時生まれていながら、全く記憶のない私は
体験者とは言えないでしょうが、いまだにどんな小型の台風や「水」を恐がる両親の気持が、判るような気がします。

この先、そのような災害には遭いたくはありませんが、最悪の場合における心の準備を、しておかなければならないと、常に思っています。
Posted by げし at 2004年12月19日 13:43
げしさん、こんにちは

私は当然、それを生で見ております。しっかりと目に焼きついています。

ご両親も、本当に思い出したくない光景を見ていらっしゃるんでしょう。

当時、直接被害に遭わなかった東北地方から贈られた救援物資に込められた温かい志は、一生忘れることはありません。

今は水害の恐れの無い地域に住んでいますが、毎年、ニュースで流れる各地の被害状況を見るに付け心が痛みます。

げしさんが仰るように、心構えはとても大切なものですから、子供たちにもウルサイくらい言って聞かせております。まあ、体験してみないと分からないものでしょうけど。

度々のコメント、有り難うございます。
Posted by poohpapa at 2004年12月19日 16:52
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