昨日のフジテレビの「とくダネ!」で、女優の中谷美紀さんの結婚の報道があった。
中谷美紀、ビオラ奏者と結婚 報告書面の直筆に驚きの声 「達筆」と話題に
中谷美紀、藤谷美紀、水野美紀、水野真紀・・・、似たような名前の女優さんがいて顔が浮かぶまで時間が掛かる。それはともかく、その達筆ぶりに驚いた。達筆なんてもんじゃない、もう書家の領域。
最近はPCのワープロ機能を使って、いろんな挨拶状も手書きではなく活字印刷されたものがほとんどだから、手書きの文書は新鮮。だが、よほど自信が無ければ書けない。「下手でも、心が籠っていればOK」と言う人もいるが、下手は下手、それがその人の人格そのもの、と受け留められることもある。
その一つが、入居申込書に書かれた文字。大きさも整わず、草書体とかでなく「これ以上崩しようがない」字を書く人がいて、小さい時からPCに親しんで字を書く訓練が出来ていない、ということなんだろうけど、その場合は「下手でもいいから丁寧に書きなさい」と言いたくなる。こんな字を書くようじゃ家賃もちゃんと払ってこないかも、と不安になることもあるし、職業や収入に問題があっても綺麗な字で書いてあると信用したりして。
私は自分の字にコンプレックスを持っているので、何かの送り状なんかを書かなきゃならなくなったら、伊勢丹や東急ストアなどそれぞれの店で達筆な人を探し出していて、その人に全部書いてもらっている。贈られた人からすれば私の字で届くより気分がいいと思うから。
それにしても中谷美紀さん、語学も堪能とかで、いつどこで覚えたの?、と不思議に思う。知人の紹介でウィーンフィルのヴィオラ奏者・・・、どんな知人だよ、とも訊きたい (^◇^)
最近は、ペンを持って字を書くことが減りましたね。悪字はもともとですから仕方がありません。まあ、世の中、字のうまい人がいます。この人達やっぱり天性なんでしょう。
絵のうまい人もいますが、これもやっぱり天性。。。。。
なんでもうまい人は天性。。。。
少しは努力をしましょう。
まあ、何でも素質、素養、天性の才能、なんでしょうね。一生懸命努力すれば誰でも100mを10秒切られる、なんてことはありませんもんね。そうなら私も、そして誰もが頑張ります。字が上手い人がみんな習字の教室に通っていた、ということもなく、そん習い事に通ってなくても綺麗な字を書く人がいたりして・・・。どうしたって叶わない夢とか目標ってのはあるもので、それが人生ですね。
もちろん、人の評価は「字の綺麗さ」が全てではありませんが、字が綺麗に越したことはないですね。名は体を表す、のと同様に、字は人柄を表す、と言えるかも。
才能のある人には敵わないや・・・。
それよりも、年間所得や運転免許証の再発行回数のほうが重要だ、という当たり前の結論にいたっています 笑
もし、字と人格の間に相関性があるならば、書聖「王羲之」は神様のような人格でなければならないですね。
それでも、やっぱり字はキレイなほうがいいですよね。容姿端麗が良いのと同じように。
字が汚い人は、それだけで不信感が出てしまいますから。
政治家で言えば、福島瑞穂さん、菅直人さん、福田康夫さん、野田佳彦さん。。。
心なしか左に傾斜している人が多いような 苦笑
私も今からでも書を習おうと思っていますが、なかなか重い腰があがりません。
たしかに、私の親友を見回しても「字は汚いけど性格はいい奴」のほうが多いかな、とは思います。自分が「字が下手」だから言うワケではありませんが。家主さんでも、癖の有る字を書く方がいらっしゃって、でも人柄は頗るいいです。逆も・・・、正直、あります。
申込書を書いてもらう時に、下手でも丁寧に書こうとする人は信用できますね。実際に書くところを見ていれば判断材料になりますが、FAXで送られてきた場合は「なんじゃこれ!?」と思ってしまいます。字の巧拙と性格の良し悪しのギャップを楽しむのも時に不動産屋の醍醐味だったりして。
書聖「王羲之」・・・、存じ上げませんでした。調べてみたら、「そんなに上手い字かなあ・・・」と思ってしまったのですが・・・。しかも、真筆が一つも見つかっていない、と言われていたりして。じゃあ、「王羲之」の書とされているものは本物なんだろうか、と思ってしまいます。
調べてはいませんが、統計的に言えば、美しい字を書く女性の割合と、美しい字を書く男性の割合で言えば、女性のほうが圧倒的に多そうな気がします。
性格はともかく、美しい女性から綺麗な字で書かれたラブレターなんかを貰ったなら、女房を棄ててもいい、くらいに舞い上がることでしょう。字から湧き出るイメージは馬鹿になりませんね。
本題とは関係ないですが、民主党政権下で官房長官を務めた仙谷由人氏が10月に亡くなっていたんですね。ニュースにもならなかったみたいで・・・。葬儀に呼ばれなかった大物政治家がいて・・・、
鳩山由紀夫、とのことでした。身内からも見放されているんですね。
関係ない話で失礼しました。
現代的な文字の美しさとは、一字の文字としての形の美しさを追求し、それをバランス良く(等間隔など)で並べていくことで表現されているものかと思います。
突き詰めていくと、フォントの世界になっていきますね。
これに対して手書きの良さは、そこから少しブレることで人間が書いているのだなと感じさせる部分であると。
私も10年ほど前まではそうだろうなと思っていました。
考え方が変わったのは、江戸東京博物館で開催されていた「北京故宮 書の名宝展」で、王羲之の「蘭亭序(八柱第三本)」を見て解説を聞いた時です。
王羲之は
「文字というものはその書き方によって感情すら表すことができるのだ」
という概念を書の中に持ち込んだ最初の人です。
「蘭亭序」を見ると、一つの書の中で同じ文字を別の形(書体の違いではなく)で表現しています。
私は、感情を表すものは文字の選択(文章)によるもので、文字とはその単独の(もしくは文字同士の繋がりの)美しさを追求するものだと思っていたので、天地がひっくり返るほどの衝撃を受けました。
フォント全盛期の現代では、感情を文章の内容でしか表すことができなくなり、それでも足りない場合には(笑)(怒)など感情表現を補足しています。
文字単体の安易な美しさと手軽さを追い求めた結果、表現方法としては退化しているとも言えますね。
文字一つとった美しさであれば、王羲之を超える人はいくらでもいると思います。
しかし、感情を表現する文字となればどうなのか。
「王羲之」に始まって、今もなお「王羲之」から抜け出せず、「王羲之」を超えられていないのではないかと。
このコメントを書いたことで、感銘を受けてから10年たっていることに気づき、重い腰が全くあがっていない事実に少し愕然としてします (苦笑)
字の美しさは女性の美しさと似ているかも知れませんね。世の中に美人タレントはいっぱいいて、誰もがみんな顔立ちが整っていて美人ですが、それぞれにケチの付けようがなく、あとは見る側の好みだったりして・・・。キレイな字も、全部同じではありませんよね。例えば、書道の筆の使い方の要素が全て入っていると言われる「永」の字を同じ大きさで書かせて重ね合わせても、上手い字は輪郭がピッタリ符合する、なんてことはありませんもんね。(全部じゃありませんが)人の数だけキレイな字がありますね。
キレイさも汚さも、それぞれ個性があって、稀に、その中で、その人の人柄や個性が現れている時があったりして・・・。もっとも、先に人柄を知ってしまっているからそう思うだけかもですが。
たしかに、字の中に感情を込める、ということも可能でしょうね。「!」マークとか絵文字を使わなくても、字そのもので感情を表現することも可能かと思われます。ただし、見る側にそれだけの繊細な感性が備わっているのが条件ですが。ほとんどが見逃したり見過ごすものでしょう。
私みたいに悪筆の場合はPCのワープロ機能はとても助かりますが、用件いかんによっては「ここは手書きでなければならんだろ」と思うこともしばしばです。反省文、謝罪文なんかはとくにそうですね。
ワープロ文書では感情や人柄などといったものがモノクロでしか伝わりませんが、同じ内容でも手書きの文書にすればカラーになります、それくらいの違いがあると思います。
今は好きな人に想いを伝えるのもスマホのメールで、なんてことが多いから、「恋文」を郵送するなんてことも少ないでしょうけど、届いた手紙がワープロ印刷だったら確実に振られますよね。
<<「蘭亭序」を見ると、一つの書の中で同じ文字を別の形(書体の違いではなく)で表現しています。
それも、よく解かります。例えは良くないかもですが、「大根役者と演技派の違い」と似ているかも。同じ役を演じさせても、顔はキレイだけど微妙な心理描写が出来ない女優、っているもので。
いずれにしても、ワープロに頼ると、漢字も書けなくなるし人間としての機能も退化していきますね。人間は、便利さを追求してばかりいないで、少しくらいは不便さを残しておいたほうがいいのかも。時に、その不便さを上手く利用するのが知性と言えるのかも知れませんね。
正直、私も、伊勢丹や東急ストアの達筆なスタッフの字を見ていると、「今からでも書道を勉強したい」とは思います。もう間に合わないし、悪筆が治った頃にはこの世にいないでしょうけど。