上級国民”池袋暴走事故「否認」の衝撃 車のせい?裁判の行方と思わぬ余波
AERA dot. 2020/10/08
まさか否認してくるとは思わなかった・・・。
警察や交通事故鑑定の専門家や自動車メーカーからも「車に異常は無かった」との鑑定結果が出されていて、それで裁判で否認・・・。被告人は今現在で89歳で、68歳の私同様に持病もあるようだ。裁判費用なら潤沢に有るし、起訴まで7ヶ月、一審で有罪になったとしても控訴、さらには最高裁に上告するだろうから、判決が確定するまでに被告人が亡くなっている可能性は極めて高い。 被告人は、当初は「ブレーキを踏んだが効かなかった」と供述していたのに、どうして「車の所為」と言い出したのか・・・、
「何が何でも刑務所には入りたくない」というだけのことではないのか。「私は東大卒、オマエらとは違うんだよ、私がミスを犯すワケがないんだよ」というのが本音ではなかろうか。刑務所に入りたくなくて裁判で争っている間に天寿を全うする、それが狙いなんだろうな。
ご遺族からすれば、「車の所為」と言われるより、まだ「ブレーキとアクセルを踏み間違えた」と言われたほうが納得いくのではないか。「車の所為」と言われたことで「何ら反省していない」と判ってしまったのだから。それでは抑えていた感情が爆発してしまうだろう。加害者が何ら反省していない・・・、このご遺族、光市の母子殺人事件のご遺族である本村氏と立場が似ているように思う。
これ、弁護士も最低だと思う。いくら「クライアントの利益を護るのが弁護士の務め」 「疑わしきは被告人の利益に」と言っても、(私は断定するけど)そんな嘘が通るハズがなく、いたずらに時間稼ぎをするようでは、弁護士として、と言うより、人としてクズだと思う。国民は、この被告人を誰が弁護したのか覚えておいたほうがいい。そして、自分が似たような事件事故を起こしたら、そいつに弁護を依頼しよう (こら
黒を白だと言いくるめるのでなく過ちを率直に認めさせて、その上で被告(被告人)の情状酌量を訴えていくのが本来の弁護士の務めではないのか。真実も正義も関係ないと言うなら弁護士を辞めるべき。
物事には全て相手がある。弁護士は全くご遺族の思いというものを考えないものだろうか。自分のクライアントの利益だけを考えれば良いものだろうか。まあ、いいんだろうけど・・・。それにしても、被告人が考えたことなのか弁護士が「こう主張しよう」と言い出したことなのかは不明だが、どちらもクズだと思う。
これは私の本音、
もし、私がこのご遺族の立場で、誰が聞いても「そりゃあそうだろう」と思える根拠でなく、こんな馬鹿げた被告人の主張が通って無罪になったなら、裁判所から出てきた被告人を刺し殺すかも。
自分の落ち度を認めて有罪となっても89歳という年齢から収監されることは無いと思われる。優秀な人だったんだろうけど、晩節を汚して、それまでの栄光は全て吹っ飛んでしまった。
私の同級生で親友のMちゃんが、今から50年ほど前、「人間、不幸な人生を送っていても死ぬ時(瞬間)が幸せなら、その人の人生は幸せだったのよ。どんなに幸せな人生を歩んでいても死ぬ時が不幸なら、その人の人生は不幸なのよ。死ぬ時が全てよ」と言っていて、その通りだと思う。それからすると、この被告人は幸せには死ねないだろな。少なくとも、自分にまで嘘をついて世間を敵に回しているから。
この上級国民はもう治りません。世間からボロくそに言われて亡くなる運命です。もう先も長くありませんからね。
>>被告人の弁護人
これで、無罪か軽微な罪に持ち込めれば名前が一気に有名となり、お金持ちの犯罪者からの弁護依頼が殺到しますから、今回のような目立つ事件では弁護士は頑張りますよ。
弁護士は正義の味方ではありません。法律の抜け道を良く知っている人です。気をつけましょうマスコミと弁護士。最近では教師もあかんけどね。最近は意外と不動産屋もマシになってきましたようです。
人生最後のバランスシートの辻褄は合っている、ということで・・・・。
<<最近は意外と不動産屋もマシになってきましたようです。
いやいや、マシになんかなってませんよ。どんどん酷くなっています、ほんと。中にいる人間が言っているのですから間違いありません。儲けるためならどんな屁理屈でも並べますもん。
で、本題。たしかに、これで無罪だの軽微な処罰で済ませられたら、金持ちからの弁護の依頼が殺到するかも知れませんね。ただ、仕事が殺到して利益は上がっても、人間としての評価は下がりますよね。私はそっちのほうが嫌ですけど、そうは考えない人も多いのかな。
<<弁護士は正義の味方ではありません。法律の抜け道を良く知っている人です。
それ、凄い名言で、真理ですね。最近は私も痛感しています。
たしかに、家族は「針の筵」でしょうけど、いや、もしかすると、屁とも思ってないかも知れませんよ。
ま、ほぼ間違いなく、裁判で無実を訴えている間に亡くなるでしょうから、罪を認めて罰を受けながら死ぬのと、無実を訴えながら死んだ、というのでは、本人からすれば大違いなんでしょうね。
形の上では「無実を訴えながら判決を待たずに死亡した」ことで有罪が確定したワケではない、ということになっても、「車に責任を被せて逃げた男」という評価も残りますね。いずれにしても最低です。
弁護士は、資格を取る時は六法すべて網羅するのでしょうが、プロになってからは各法の専門家にすぎないのではないでしょうか。
行列のできるなんちゃらとかいうテレビ番組では、「自転車も軽車両という立派な車両なので、道交法に縛られます。よって、道路の速度規制は適用されるのでスピード違反はあります!<(`^´)>」とか臆面もなくどうどうと宣言してましたが、これは正しいようで間違ってますよね。
自転車には客観的に自分の運転速度を把握できる手段(つまりスピード・メーター)が(義務付けられて)ないので、仮に制限速度超過してても運転者の罪を問うことは不可能になるだろうと思います。
つまり、リヤカーや自転車や馬車に速度制限違反は(実質的に)ない、まで言って正解だろうかと…(´・ω・`)
所詮、専門官てのは大海を知らん井戸のサンショウウオなんですよ(^ヮ^)
おはようございます、昨日今日と、どんよりとした雨で暗いですが、僕のコメントも暗いです?
さてこの老人、まさに晩節を汚がしていますが、どうせ世間では忘れられる名前ですし、ただ一族郎党の中でこんな恥知らずなバカがいたと言う名前が残るだけでしょう。
>死ぬ時が不幸なら、その人の人生は不幸なのよ。死ぬ時が全てよ
このご意見、非常に心に響きますね、実は僕には子供がいない、かみさんは一人っ子だし、僕の甥や姪はきつい意見を言い遠慮なくぶん殴ってきたので寄り付きもしない。
つまり死ぬ時はどちらかが一人っきりになるという事。
頑張って僕が最後になるよう努力するし、更にできるだけ他人様には迷惑を兼ねないよう準備するつもりだが、所詮死は自分の自由にはならない。
碌でもない最後かも知れないが、それも受け入れざるを得ない、しかしそんな時インパ−ル作戦やガダルカナル島で亡くなった兵士の事を思えば、何ほどのことがあろうかと心に決めて居る。
暗いコメントになりましたね、申し訳ない。
自転車にスピード違反・・・、無いでしょう。事故でも起きれば「相当なスピードで走っていた」とかの証言が飛び出したりはするでしょうけど、それでもスピード違反までは・・・、ねえ。
<<「ブレーキを踏んだが効かなかった」のなら、「車の所為」という主張は間違ってないような…(・・?
いやいや、そもそも、ブレーキ、踏んでないと思うのですよ。ブレーキを踏んだつもりで思い切りアクセルを踏み込んでいただけで。
私が以前から言っているように、走行中に思い切りアクセルを踏んだならエンジンが停止して急ブレーキが掛かるような仕組みを作ればいいのです。走っていて、急ブレーキを掛けることは有っても、急にアクセルを踏み込むことはありませんから、その時は「ブレーキとアクセルを間違えた」と判ります。もちろん後続車は危険ですから、ハザードが点滅するようにするとか、何か方法は有るかと。
私は、弁護士は全ての法律を覚える必要は無くて、個別の事案に鑑みて6法全書のどこを見ればいいか、過去の判例をどう調べて参考にすればいいか的確に判断できればOK、だと思っています。
「行列のできる法律相談所」では4人の弁護士が常に同じ意見になることは無く、意見が真っ二つとか1:3に割れることが多いですね。てことは、同じ6法全書を見ていても解釈が違う、あるいは見ている法律が違っている、ということですね。本来なら結果が同じでなければおかしいのですし。
私も、弁護士の腕が悪くて本来なら負けるハズの無い裁判で損害を被ったことがあります。原告は私ではありませんでしたが。弁護士もピンキリですね。はい、不動産屋と同じです。
まあ、親族、とくに奥さんは辛いでしょうね。いい恥晒しですもん。裁判の冒頭ではいちおうご遺族に謝罪したようですが、車の所為にしたところで謝罪の言葉など吹っ飛んでしまいましたね。
この先ず〜っと、事ある毎に「そういえば、そんな奴(官僚)もいたなあ」と思い出されたりして。
ところで、ボースさんの奥様に対する優しさは十分に伝わってきますが、女房に先立たれた亭主ほど惨めなものはありませんよ。だいいち、奥様はそんなこと望んでいらっしゃらないと思うのです。うちなんか、うちののほうが16歳と8ヶ月も下なので、突発的な何かが起きない限り順当に私が先に死ぬことでしょう。ま、おそらく私が死んだ後、20年くらいは生きるかな。
うちの、再婚してもかまいませんが、再婚はしないと思います。孤独死、なんてことになったら困るので、今からそうならないようにいろいろ考えていますが、ボースさんが仰るように、死は自分の思い通りにはなりませんもんね。そうであっても、ボースさんと同じように、自分の死後にうちのが生活に困らないように、せめて(うちのの名義の)住宅ローンだけは片付けておいてやりたいと思っています。その目途が立ったら、いつ死んでもいいかな、と思います。
「幸不幸の分かれ目は死ぬ時が全て」と言っていた同級生、「いいところのお嬢さん」でしたが、高校時代から他の女子生徒よりモノの見方がしっかりしていて尊敬していました。私の生徒会の執行部に入ってもらい、もう半世紀以上の付き合いになります。今度飲みに行こう、と約束していましたが、コロナで流れてしまいました。ボースさんに会わせたい女性でもあります、ほんと。
たしかに、あの戦争で、お国の為、と信じて散っていった若者たちのことを思えば、今の我々の苦労なんて、どれほどのものでもありませんね。今の野党、反戦を訴えるのはいいとして、先人に対する感謝がありませんから、どんな訴えもまるで心に響きません。
戦争するしないに関係なく、徴兵制は有ったほうがいいような・・・。そして、本当に戦争が起きたなら、先ず60歳以上を戦地に向かわせるべきかと個人的には思います。若者は残しておかないと。
話が逸れましたが、車の免許、18歳にならなければ取得できないのですから、70歳で召し上げ、ということでもいいような・・・。少なくとも、交通網が発達している都会ではそれでいいでしょうね。
この考え方の軸になることは、人にとって重要なものは「最新の感情」であって、死後も含めて「最新の感情」となるものは、死ぬ瞬間の感情だということです。
もし、死後に感情が次々と変化していくという前提となると、死ぬ瞬間の感情が「最新の感情」とはならなくなります。
死ぬ間際の感情は「過去の一時点の感情」となり、それを引きずる理由がなくなります。
また、「死んだ後は無になる」という考え方であれば、死の瞬間の感情には全く意味がなくなります。
「最新の感情」も「過去の一時点の感情」も一切合切なくなりますから、気にする必要すらなくなります。
死生観というものは、死後の世界をどう捉えるかによって変わってくるものです。
「六道輪廻」を信じるのであれば、前世の行いによって転生される世界が変わってきますので、死後(転生後)には生前(前世)の最後の感情はあまり意味をもたず、「前世の総括」のほうが意味をもってきます。
「最後の審判の日」を信じるのであれば、死後は地中で眠っていることになりますから、眠っている時に感情があるのか、感情が変化するのかで評価が変わってきます。
とは言っても、審判の日にムクムクと起きてきて、生前の行いによって天国行きか地獄行きかを決められるわけですから、死ぬ瞬間の感情よりもやはり「生前の総括」のほうが重要になってきます。
日本式仏教や神道のように、「死後は子孫を守る存在(家の守り神)になっていく」ことを信じるのであれば、死後にも「最新の感情」というものが出てくるはずで、日本人は知らず識らずのうちにこの考え方をとっている人が多いと言えます。
民族的な価値観をベースにした土着宗教であるので当然といえば当然なのですが。
最初の話に戻ると、「死んだ瞬間の感情が死後に固定化される」ことを説いている宗教は、聞いたことがないので極めて少数の考え方なのかもしれません。
実際のところはMさんも、死後にも魂のようなものは残るとは考えているものの、その先のことは漠然としていて想像できない、ということなのかなとは思いますね。
おそらくは、死ぬ瞬間の感情が固定化されるとは思っていないけれども、先のことが想像できないから、想像できる範囲(死ぬ瞬間まで)で「最新の感情」を重視しようということなのかと。
こういうことを突き詰めていったものが宗教ですから、人は宗教とは無縁になれない存在ではあります。
この裁判については、人が人を裁く(という建前の)裁判制度の是非やそれに基づいて下される判決よりも、被告の死生観のほうが気になります。
たしかに、死んだ瞬間に「無」になる、ということであれば、続きは無いのですから、その瞬間が幸せかどうかで「人生が幸福だったか不幸だったか決まる」ことになりますね。あの世、というものがあって、死んでからも続きがあるのなら、死ぬ瞬間がどうだったか、では決められないかと思います。それより、今まで生きてきてどれだけ善行を施したか、悪事を働いたか、で天国行きと地獄行きに分かれるとしたら、死ぬ瞬間がどうであったかは意味が無いこと、と言えるかも知れません。
私は「死んだら無」と思っていて、魂は残るとしても、「あの世」があるとは信じていませんが、それでも、死ぬ時が幸せかどうか、には拘ると思います。「死んだら無」と思いつつ、もし「あの世」があるなら、先に逝った友人やノルンやラブに会えるかも知れない、なら死ぬことも怖くない、と思えますね。
「あの世」(天国と地獄)なんて、死ぬのが怖い人間や、子供たちに悪人になって欲しくない親たちが、死んでも続きがあるよ、と思いたくて想像で作りだしただけのもの、と思っていますが。でも、「もしかしたら先に逝った人たちと会えるかも」と自分に都合よく解釈したりして。
私の場合は、死ぬ、ということは、医療モノのドラマでベッドの脇にある心臓の波形を示しているモニターの波形が、ピーーーと一直線になることで、そこから先は無。ただし、自分のしたことや言葉が誰かの心に響いて、ま、一代で終わりでしょうけど、語り継がれる、というか、「こんな人もいたね」と思い出になって相手の心の中に残ってくれたらいいかな、と思っています。
今を生きるのもなかなかにシンドイものがありますので、死んでからも「あの世」で歳を取らずに死なない人生が始まるなんて、正直、まっぴらであります。
私が当時、何で悩んでいたのかは思い出せませんが、「死ぬ時が幸せならいいのよ」と言ってくれたMちゃんには感謝しています。
それにしても、死生観は人それぞれで、奥が深い問題ですね。