昨日は、コメントの返信を打っている最中に猛烈な睡魔に襲われて、途中で諦めて8時20分に就寝。4時半に起きたから8時間は寝ていた計算。猫や赤ちゃん並みに良く寝たなあ・・・。
で、本題、いつもの「NPO 法人 百人の会」のメルマガから、
川内時男先生の活動報告(基)
(元徳島県公立中学校校長)
85、人権原理主義が文化を破壊する(拡散希望)
いかに素晴らしい理念であっても原理主義に走りますと社会に軋轢を生みます。
今学校現場で行われている人権教育はその典型ではないかと思われます。
私が現役であった頃(今も変わっていないと思いますが)の人権教育はかなり急進的で、首をかしげることが多くありました。人権の考えに少しでもそぐわないものはことごとく否定していたのです。昔から伝わる童話や伝説もその餌食になりました。
「桃太郎が鬼ヶ島へ鬼退治に」の話では「鬼にも人権がある」とされ、「おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に」の話は「男女の役割分担の固定化だ」と難癖をつけられ、ウサギと亀の話では「亀はどうして昼寝をしている兎を起こして一緒にゴールを目指さなかったのか」などの授業を大真面目にやっていました。これらは小学校低学年の人権教育の例ですが、「馬鹿馬鹿しい」と思った人も多くいたことでしょう。
私は「授業で扱う教材に童話を持ち込んだだけ、何も目くじらを立てることもない」との思う一方、「授業で扱うための材料なら他に適当なものがいくらでもあるだろうに、わざわざ古くから伝わる伝わる童話を取り上げ、本来の主旨をねじ曲げて子供に教えることもあるまいに」とも思いました。私が許せないのは教師がアレンジした話を劇にし、「桃太郎は鬼ヶ島で鬼達と仲直りをして・・・」のような劇を演じさせながら、本来の桃太郎童話を子供に教えていなかったことです。童話・伝説と言えど伝統文化のひとつ、もう少し敬意を払えないものでしょうか。
人権原理主義が文化を狩る例は他にもあります。「清めの塩」は死体を扱う人への差別につながるからダメ、男児が生まれて鯉幟を揚げるなどはけしからんなど・・・。もっと許せないのは「大安・仏滅・友引などの六曜は非科学的な迷信だからダメ」と否定することです。傲慢です。第一、伝統的風習に科学的根拠を求めるなどはそもそもの間違いです。「非科学的だから」の考えで文化・風習を狩っていけば盆も正月もクリスマスも七夕も、それどころか日本全国の祭りのほぼ全てが否定されることになります。
ところで、このことについて私が日頃から提言していることとの関わりから、一言弁解させてください。私はかねてから教育に科学を取り入れ、教育現場に巣くう「きれい事」を一掃するよう提言していますが、かといって科学を絶対視し、科学的裏付けのないものを社会から全て排除せよと言っているわけではありません。世の中には科学で説明できないことがたくさんあるからです。文化的風習・習慣に科学的根拠を求めるのと教育に科学的根拠を求めるのは全く違うのです。
言うまでもないことですが、文化とは先人達が悠久の歴史の中で温めてきた知恵の結晶です。その中には多種多様な考えが渾然一体となって調和しています。その多種多様な考えの一つに過ぎない人権が他の考えを押しのけて肥大化すれば社会が歪になるのです。日頃人権を口にする人達は今少し伝統文化に対して謙虚になるべきではありませんか。
日ごろ「人権」「人権」と騒いでいる連中が新疆ウイグル自治区に対する中国のジェノサイド(大量虐殺)に抗議した、などという話は聞いたことが無い。先般の東京五輪組織委員長である森元総理の言葉尻をとらえて「女性蔑視だ」「差別だ」と辞任に追い込んだ連中にとっては、中国のジェノサイドと森さんの発言とを天秤に架けたら森さんの発言のほうが圧倒的に重いようだ。
桃太郎という童話が子供たちに今どう伝えられているか、という話は知っていたが、「お爺さんは山に芝刈りに、お婆さんは川に洗濯に行きました」がダメで、「鬼にも人権がある」・・・、それは「死刑囚にも人権がある」と言ってるのと同じ。無残に殺された被害者やご遺族の人権はそこには無い。そのうち、「罪を犯した人間を刑務所に入れるのは人権問題」などと言いだしたりしてね。
「うさぎとかめ」では「かめさんが寝込んでいたうさぎさんを起こして一緒にゴールインさせる」・・・、教師はどんな顔をして子供たちに教えていたんだろう。間抜け面が目に浮かぶ。
長く伝わる童話や伝説を自分たちの思想に合わせて改竄するということは、数学の問題で自分の出した(間違った)答に合わせて公式を変えてしまうが如し。競争が差別や人権問題なら大学入試は要らんだろ。閣僚や役人が自分たちの都合に合わせて資料を改竄するのより遥かに大問題。
私は、戦後、日本の教育を破壊してきたのはGHQと日教組だと思っていて、それは間違いないだろう。
子供の方から「どうして亀はウサギを起こさなかったんだろう」って質問があれば「そうだね、そういう手もあったよね」って言うのが教師なんじゃないかなって私は思います。
まぁこの私の考えも「教師たるものこうあるべき」っていう押しつけなんだと思いますが(^^;
人権人権って言ってる人って本当に中身空っぽですよね。鬼にも人権がーなんて言ってないで皆に嫌われている鬼にならないようにすることを教える方が大切だと思います。
100人いれば100通りの考え方が有ってもいい、そのとおりだとは思いますが、長く語り継がれてきた童話のストーリーを人権の名のもとに捻じ曲げるのはどうかと思ってしまいます。
<<人権人権って言ってる人って本当に中身空っぽですよね。鬼にも人権がーなんて言ってないで皆に嫌われている鬼にならないようにすることを教える方が大切だと思います。
それ、まさにそこなんです。鬼がなぜ桃太郎に成敗されたのか、どこがいけなかったのかを教えないとね。どうして亀が兎を起こさなかったのか、と言えば、競争していたから、それ以上の答は無いかと。
教師が自分の考え方を生徒に押し付けたいなら、自分で新たなストーリーを考えればいいのに。そんな手抜き教師は子供から尊敬されませんて。教え子からの年賀状も一枚も届かないでしょうね。
『桃太郎』の鬼を「人権」と捉えるのは、相当屈折した思考回路じゃないかと。
どんなに拡大解釈しても、普通は「動物保護」とか「環境問題と人間社会の関係性」、百歩譲って「犯罪と刑罰について考える」みたいなもんにしかならないですよね。
そっか・・・、「醜いアヒルの子」は、たしかにそうですね。日本ではあまりポピュラーではないからか、あるいは日本の童話を標的にしているからか、問題にはなりませんね。
「鬼にも人権が・・・」と言うのは、「動物にも人権が・・・」と言うようなものですね。もっと言うなら「死刑囚にも人権が・・・」とか。最終的にはそこに結び付けるのが目的だったりして。