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3/21 川内時男先生の活動報告(基)
(元徳島県公立中学校校長)
86,人権社会のなれの果て(拡散希望)
アメリカは世界一の人権大国です。そして人権は人間を幸福に導くための概念です。
では今アメリカに暮らす人々は世界一幸福なのでしょうか。私にはとてもそうは思えません。
弱肉強食の殺伐とした社会でしかないからです。
アファーマティブ・アクション(社会的弱者を救済する措置)や、ポリティカル・コレクトネス(政治的・ 社会的に公正・中立とされる言葉や表現を使用すること)が浸透していることを見れば確かに人権大国です。しかし、これらによってアメリカ社会がどれほど歪になっているかを考えれば、アメリカは「人権尊重国家」ではあっても、「人間尊重国家」とは思えません。
アメリカは人権大国であると同時に世界一の訴訟大国でもあります。些細なもめ事でもすぐ裁判になります。当事者どうしが話し合い、歩み寄ってものごとを解決するという柔軟さがないのでしょう。そして訴訟はすでにビジネスと化しています。事件・事故で遺族が嘆き悲しんでいる現場に弁護士が先を争うように駆けつけ、名刺を配り、「私が賠償金をとってやる」とアピールする凄まじい国です。因みに、単位人口当たりの法曹数(司法関係者や弁護士の数)は日本の二十倍です。
ギャグのような実話もあります。「入浴した猫を電子レンジで乾かしたら死んでしまった」と家電メーカーを訴え勝訴した、などは日本では笑い話です。 一方我が国ではどうでしょう。単位人口当たりの訴訟数はドイツの五分の一、フランスの七分の一です。アメリカとの比較では桁が違いすぎて比べることさえ不可能です。
私は欧米で人権が生まれたからと言って、かの国で人間が尊重された歴史を持っているとは思いません。むしろ人間の尊厳が踏みにじられ、非人間的な扱いをされてきたからこそ人権という概念が生まれたのではないかとさえ思っています。
そういう日本と欧米、貴方はどちらが豊かな社会だと思いますか?
権利という考えが日本に伝来した明治期、福沢諭吉は権利を意味する英語「right」を「権理」と訳しました。「権」とは「一命を賭して守るべき一分」という意味であり、「理」とは道理、即ち正義のことです。してみると命をかけて正義を守る「権理」とはなんと崇高な言葉でしょう。
ところがいつの頃からか「権理」が「権利」と表記されるようになりました。名は体を表す、と言われますが、これでは命をかけて利益を権(はか)るという意味にしかなりません。何ともさもしい言葉です。
私達日本人は今一度原点に返り、「権利」ではなく「権理」の精神を胸に刻むべきではないでしょうか。折も折、今テレビでは渋沢栄一が主人公の大河ドラマ「青天を衝け」が放映されています。渋沢は資本主義を取り入れるに際し、我が国のお国柄を考えて「論語と算盤」を著し、
欧米の貪欲資本主義ではなく道徳を軸とした資本主義となることを世に訴えました。さすがです。
欧米発祥のものなら無節操に取り入れる日本の教育界はこれを見倣うべきではないでしょうか。
(原文のままですが、元々はスマホでの原稿なので、改行が入っていなくて文章が繋がっていて読みにくいので、改行は私の判断で入れさせて頂きました。以前の原稿も後で改行を入れさせて頂くかも)
川内先生のご意見は一から十まで仰るとおりかと存じます。私は「人権」だの「プライバシー」だの、さも誰の目から見ても正しい、と思える言葉が今の日本に蔓延るようになって日本が住みにくくなった、と思っています。なぜなら、「人権」という単語だけは当たり前に正しいものですが、それが使われる場面での「人権」は、明らかに別の目的、「我田引水」で使われているからです。日本のマスコミや社会活動家が唱える「人権」は、相手の為ではなく自分の為だから、です。
日本はその国民性で昔から「相手を思い遣る」ことで、誰も意識していなくても人権以上の理念を持ち、平和な生活をしていました。そこに馬鹿な教育者や活動家が些細なことで「人権」を振りかざして、毅然とした態度を示せない政治家が乗って、日本という国を破壊し始めています。
人権なんて、基本的人権だけで十分です。その上で、あとは自分が努力すればいいだけのこと。努力もしないで権利だけ主張するような奴まで福祉で面倒をみなくていいのでは、と思っています。そんなことしたら、真面目に頑張っている人たちへの逆差別になります。誰もが自分にとって都合の良い人権(権利)のみを主張して、もしもそれが全て叶えられたなら、もの凄く不公平な世の中になります。
今、なんでも「人権があ」と騒ぐ連中や、森元総理に「差別だ、女性蔑視だ」と濡れ衣を着せて辞任に追い込んだ連中が中国のジェノサイドに抗議した、などという話は聞きません。抗議しても(したなら)自分の利益にはならないからです。ジェンダーフリー信奉者も同じですね。
私個人は、何かにつけて「人権があ」と声を上げる奴、ジェンダーフリーに邁進する奴は一種の気違いで、正しい価値観を持ち合わせていない馬鹿、くらいにしか思っていません。悲しいかな、野党に限らず与党の政治家や法曹界にも多いですね。近い将来、過度な人権意識が日本という国を崩壊させます。
日本の風土や国民性に合わないものは、無理に取り入れないほうが良いでしょう。
おはようございます、今日の川内先生とpoohpapaさんの御意見は含蓄に富んでいますね。
僕は日本に於いて養育は西洋に倣うべきではないと思っています、日本独自の教育理念、右翼と言われそうですが、教育勅語と会津のじゅう(さんずいに十)の掟の最後’ならぬものはならぬのです’これで十分。
教育勅語を左翼は唾棄すべきと言うが、内容を読んだことがあるのかと聞きたい、どこが問題なのか、最後の天皇も実施するから国民を実施しなさいと言う所が気に食わないのか?そうならあまりにも考えが狭い、良いものは良いのだ。
poohapapaさん、川内さんの意見を読んで渡辺京二氏著の’逝きし世の面影’を思い出した。
この本お内容は幕末日本を訪れた外国人が日本の印象を述べた感想を集めたもので、彼らは異口同音に日本をほめたたえている。
原書からこれだけのものを集められた渡辺氏の努力には頭が下がる、文庫本でもかなりの厚さで、一昨年入院時にやっと読破したもので、今はほとんど忘れかけている。
武士は藩校、農民町民は寺子屋での読み書き算盤、生き方の道徳と読み書きの基礎をたたき込み、後は本人の資質に任せる。
前にも書きましたが、ノーベル賞を取ってしかるべきの北里柴三郎なんか熊本の庄屋の息子ですよ。
教育は戦前に戻すべき、’権利より義務’、’私より公’、’悪いことをすればお天道様が見ていて、罰が当たる’を叩き込むべき。
’権利’誰がこんな当て字をあてたのですかね?’権理’にかなう当て字はないと思う、やはり福沢諭吉は素晴らしい。
小学生の道徳に日本偉人伝を教えるべき、そうすれば日本人としての誇りが自然と醸成されます、大ウソの慰安婦なんか教科書に入れるべきではない。
朝日に代表される左翼は日本人を委縮させるのが目的、そうすれば誰が喜ぶかをみれば、彼らの立ち位置が分かると言うもの、はっきり言って特亜の犬。
特亜に負けないためにも、’ならぬもなはならぬ’と日本人が自らを律する必要がある。