ちょうど50年前の今日9月23日は、私と元妻が上野の池之端文化センターで挙式した日・・・。そのまま夫婦でいたなら(同級生の誰より早く)今日が金婚式だった。ま、同級生も皆、10年以内に迎えるけど。
田舎の「まあまあの進学校」に入ったものの、根っからの(教科書での)勉強嫌い、どんどん同級生に抜かれて行って、気付けば高卒で就職。男子300名(女子は150名)のうち、就職したのは2人だけ。あとは、浪人組もいたけどほぼ全員が4大に進学。同級生から陰で「ああ、あのバカね」と言われているのは承知していた。なので、誰よりも早く(親からの経済援助を受けず)自分たちの力で結婚して、誰よりも早くマイホームを購入して同級生を見返してやろう、と思っていて、それだけが、生きていく上での原動力。
20歳で結婚したけど、「カネが無いから式(披露宴)はしないで」とは考えなかった。親は娘の花嫁姿を見たいと願っているだろうから。それに、それだと早く結婚した意味も無くなるし。式や披露宴、新居を借りる費用、新婚旅行の費用等々、全部自分たちで出した。もっとも、頂いたご祝儀でお釣りがきたけど。
で、24歳の時に埼玉県の入間市で新築の3LDKのマンションを購入した。その時も親を頼らなかった。結果的に、それが「一つの運命の分かれ目」になったと思っている。18年前、こんな記事を書いている。なので、裕福だから(カネの苦労を知らないから)幸せ、貧乏だから不幸、とは必ずしも言えないと思う。
先日も記事で触れたけど、両親の老後のお世話を私たち夫婦がしよう、と考えなければ、今も夫婦でいられたと思う。義妹たち夫婦の「出来の悪さ」も離婚の遠因になったりして。責任転嫁でなく、そうだと思う。
そうだ、あともう一つ、何かにつけて、元妻が私の気持ちを上手く義父母や妹たち夫婦に伝えていてくれたら、ということ。誤解が生じていても「うちの人はそんなつもりで言ってるんじゃないよ、こんなふうに考えていたんだよ」と代弁してくれていたら、と思う。元妻は義父母や妹たちの顔色を窺うことしかしなくて。そんなだから、今回の相続でも妹から「3等分でいいじゃん」と言われたら従うことしかできないだろうな。
恨み辛みは置いといて、私は今が幸せで「自分は十分に人生の勝ち組」、と思えるからいいんだけどね。
ところで、池之端文化センター、「2010年4月30日をもって営業終了し40年に亘る歴史に幕を閉じた」とある。我々が挙式したのはオープンから3年目だったんだ・・・。あれだけの規模の式場も40年で幕を閉じたなら、そこで挙式した我々の夫婦生活が30年で破綻していても何ら不思議は無いか・・・(関係ない)
で、親との同居に関しては「懲りている」かと思いきや、今、岩手で一人暮らしをしているお母さん(義母)との同居を切望している。お父さんは施設に入っていて、もう出られないから、お母さんには「一人暮らしが辛くなったらいつでも東京(うち)に来てね」と伝えてある。義弟のお嫁さんも凄く人柄がいいけど、実の娘のほうが何でも頼みやすいだろうから。お母さん、「そう言ってもらえるだけで気が楽になる」、と仰っている。もちろん、「言ってみただけ」でなく私は本当にそう思っている。その日が来るのが待ち遠しいほど。何と言っても、「うちのを産んでくださって、今の私の幸せに最も貢献してくださっている」のだから (^^♪
2022年09月23日
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池之端文化センター、聞いた記憶があり調べてみたら、三菱の創業者の岩崎弥太郎の邸宅の場所にあったのですね。今でも、岩崎邸として公開されていますが、文化センターはその土地の一部だったらしい。不忍池が見渡せる良いロケショーンの結婚式場だったのでしょう。
私の元嫁も再婚し、親と同居しようとして失敗したようです。実家を二世帯住宅にリフォームしたけど、近所の使われていない親戚の家に両親は転居するとのこと。娘から聞きました。老いてくれば許容度が少なくなり、ワガママになるのは当然。実の親ほど性格がわかっていて似ているので、難しいですよね。
本日は、お誘いに乗れず残念でした。また誘ってください。そして、饅頭、当てることができずごめんなさい。
<<本日は、お誘いに乗れず残念でした。また誘ってください。そして、饅頭、当てることができずごめんなさい。
とんでもないことですよ、急に誘った私のほうが悪いのですから。もちろん、また機会がありましたらお誘いいたします。気のおけない楽しい仲間ですので、次は是非。でもって、早めに連絡しますね。
霧の森大福、なかなか当たりませんね。愛媛まで行っちゃったほうが早かったりしてね。でも、当たらないからと、バラキさんが謝る話ではありません、お互い様ですもん。年内に当てたいなあ・・・。
さて、池之端文化センター、そんな由緒正しき(?)場所だったんですね、知りませんでした。ロケーションがいいので田舎から呼ぶ親族や友人が便利だろうな、と思って選びました、それだけでした。
<<老いてくれば許容度が少なくなり、ワガママになるのは当然。実の親ほど性格がわかっていて似ているので、難しいですよね。
仰るとおりです。元義父は、3姉妹のうち、とくに長女である元妻を可愛がっていたのでしょう、本音では「オマエなんかに」と思っていたのかな。家を建てている時(建設中)から「これは前途多難だわ」と思いました。それでも、「目的は両親の老後のお世話をするためなんだから」と思って我慢していました。向こうは向こうで不満はあったと思いますが。一緒に暮らし始めた頃はまだ元気でしたし、直接言われはしませんでしたが、「私の土地を半分使わせてやっている」と思っていたんでしょうね。
義妹たち夫婦、「具体的に知ってくれていなくても、『一緒に暮らすとなるといろいろあるんだろうな』、と気付けよ」と言いたくなりました。もしも自分たちが一緒に暮らしていたら、という発想や思考は全く無かったですね。いや、「私たちならもっと上手くやれた」と思っているかも。苦労が足りないんですよ。
私は、池之端文化センターの新郎控室で、親父から「東京の女(ひと)と結婚する、ということは、もう田舎には帰ってこない(田舎で暮らすことは無い)ということだな。だったら、わしらのことは心配しなくていいから、〇枝さんの両親を自分の親だと思って尽くしてあげなさいよ」と言われて、忠実に親父の言葉を守ってきたつもりでいましたけど。通じませんでしたね。私は隣の自分の家で泣いていたことも何度かあります。そういうところこそ元妻の出番、だったんですけどね。
「義父母にとっては最高の婿に逃げられた」、と、私は思っています。大事にしとけば良かったものを。
でね、うちの(現妻)は「おとうちゃんの介護はしないからね」と今から宣言していますし、せめて「棄てられないよう」にしないと・・・。我を張らず、いつも感謝の気持ちを表すよう努めます、はい。まあね、棄てられたとしても、今まで連れ添ってくれただけでも十分にお釣りが来ます、ほんと。