歩道を我が物顔で走行する自転車に「ハッ!」とすることは多い。
後ろから来た自転車にベルを鳴らされて、追い越していった自転車をふと見ると、ヘッドホンステレオを聴きながら走っている若者だったりする。それは身勝手で、しかも危ない。人は目だけでなく、耳でも危険情報を集めながら歩いたり運転したりしているものだ。
自分は安全情報を遮断しているのに、相手にはベルを鳴らして警報を発する。それでは「アンタの言うことは聞かないけど、こっちの言うことは聞け!」と言っているのに等しい。
ましてや、本来なら車道を走るべき自転車が歩道を走っていて、しかも歩行者が優先であるから「みだりにベルを鳴らしてはならない」のにベルを鳴らして歩行者をどかせようとする。それでいてヘッドホンステレオを聴きながら、というのでは許せない思いである。
夜道を無灯火で走る自転車もまた危険で不快である。灯火は、自転車の進路を照らす為というより、自転車の存在を歩行者や車に知らせる意味合いが強く、自身を守ることにもなる。また、車との事故が起きた時、それでも車の過失を多く取られたら運転者は堪らない。
(歩行者に対してだけでなく)自分以外の通行者を気遣う気持ちがあるなら、ヘッドホンステレオを聴きながらとか無灯火で自転車に乗ることはしないものだろう。車のシートベルトと同様に、もうそろそろ法律で罰則規定を設けても良いのでは、と思えてならない。
2006年11月15日
2006年11月03日
弱者からの気配りも必要では
以前、同様趣旨の記事を書いたことがあって、こういう記事は誤解を受けやすいものなので、アップするには勇気も要るが、出すことにする。文章の上っ面だけをお読みにならないよう願っている。
グランデュオの中華街のレストランでランチをとっていると、店の中ほどに座っている3人連れの家族の一人が、いきなり奇声をあげた。かなりの大声だったので私も驚いた。何回も周期的に、である。どうやら障害をお持ちの方と、そのご家族のようだった。
お店の人は、慣れているワケでもないだろうが、とくに気にしている素振りはなく淡々と仕事をこなしているのだが・・・、
ちょっと気になった。
一緒にいる母親と思しき年配の女性は、店に入る時に店側に事情を説明して了解を求めているのだろうか、と。
私たちはピーク時をずらして行ったので空席はたくさん有ったから、事前に母親がお店の人に事情を説明したなら、ど真ん中の席には通さなかったであろう。事情を説明しないまでも、母親は店や他の客に配慮して「隅の席でお願いします」、と言うべきではないか。
障害をお持ちの人の為に、そうでない人が「より多く何らかの負担をする」、ということは構わない。だが、「今はバリアフリーの世の中になっているのだから、いちいち気を遣わなくてもよい」、ということにはならないものだろう。
もし私が、この店で食事しようか他の店にしようか迷っていて、店の中からそういう奇声が聞こえたなら、申し訳ないが「気になって落ち着かないから他の店に行こう」、となったと思う。
ほとんどの客は、入る前に店の中を覗いて「空席や雰囲気の様子」を窺っている。私でなくとも「事前に判れば逃げてしまう」ものだろう。悪意は無くても、一種の営業妨害と言える。
「そういう人は外食するな」、と言っているのではない。車椅子の人なら多少通路を塞いでも大して迷惑を掛けることも無い。だが、奇声は違う。正直なところ、気になって、料理の味が判らなかった。
そういう障害をお持ちの方が、一般の人と同様に「何も気にせず、不自由なく暮らせる社会」になれば素晴らしいことではあるが、それは「障害をお持ちの方からの理想」であって、現実には無理である。それを推し進めると別の不公平も生じてくる。「障害を持つ人は、社会の隅で小さくなって生きろ」、と言っているのでもない。自身の立場や状況を理解して、逆に、障害を持たない人に配慮することも必要なのでは、と言っているのである。
同じような光景は、デパートの物産展でも目にする。最も混雑する初日に、車椅子の人やベビーカーで子供を連れてくる母親がいる。絶対に初日でなければならない、ということも無いだろうし、混雑するのは判っているハズで、互いに危険でもある。日にちや時間をずらせば空いているのに「お構いなし」である。とくに、乳幼児の場合はベビーカーではなく「おぶい紐」「抱っこ紐」で来るとか、子供の安全の為にも工夫すべきなのだが、何も考えていない。と言うより、「自分が楽をする」ことしか頭にない。
私がもし車椅子で生活していたなら、初日の物産展には行かないし、街に出る時には比較的人通りの少ない時間帯を選ぶ。小さな子供を連れて外出するなら状況に応じてベビーカーとおぶい紐を使い分ける。奇声をあげる障害を持っている人の親なら、お店の人に事前に声を掛けたり他の客にも配慮する。
社会で過剰に「平等だ」「バリアフリーだ」「弱者救済だ」「人権だ」などという声が蔓延すると、逆に、多くの人にとっては暮らしにくくなる一面もあるだろう。街を歩いていて私は、「車椅子の人」から「はい、どいて!どいて!」と言われているような気分になる時もある。
「障害を持つ人」「持たない人」が、社会で気持ち良く共存する為には、弱者からの「気配り」も必要ではないか。
お断り
今は「障害者」という言葉も使わないようになっているのだとか。なので、「障害者」「健常者」という表現でなく、「障害をお持ちの方」「そうでない方」、という回りくどい文章になっています。私の思い違いで、「障害者」という言葉が良くないのでなく「障害」という表現が良くないということだったかも知れません。だとすると、「障害をお持ちの人」などと表現しても意味が無いことになってしまいますね。単に「丁寧に言ってるだけ」ですから。
前に書いた気もしますが、テレビで「座頭市」を観ていて、ヤクザが座頭市に「やい!どメクラ!」と叫ぶ台詞にピー音が入っていました。私は「過剰反応」だと思っています。というのも、目の見えない方、「座頭市」は観ませんでしょう。仮に観た(音だけ楽しんでいた)としても、ピー音の部分の台詞が元々は何だったのか直ぐ判る話です。そういう不自然な配慮や加工は、むしろ不快に思えます。その「どメクラ」が目あきの悪人どもを懲らしめる話なのですから。
グランデュオの中華街のレストランでランチをとっていると、店の中ほどに座っている3人連れの家族の一人が、いきなり奇声をあげた。かなりの大声だったので私も驚いた。何回も周期的に、である。どうやら障害をお持ちの方と、そのご家族のようだった。
お店の人は、慣れているワケでもないだろうが、とくに気にしている素振りはなく淡々と仕事をこなしているのだが・・・、
ちょっと気になった。
一緒にいる母親と思しき年配の女性は、店に入る時に店側に事情を説明して了解を求めているのだろうか、と。
私たちはピーク時をずらして行ったので空席はたくさん有ったから、事前に母親がお店の人に事情を説明したなら、ど真ん中の席には通さなかったであろう。事情を説明しないまでも、母親は店や他の客に配慮して「隅の席でお願いします」、と言うべきではないか。
障害をお持ちの人の為に、そうでない人が「より多く何らかの負担をする」、ということは構わない。だが、「今はバリアフリーの世の中になっているのだから、いちいち気を遣わなくてもよい」、ということにはならないものだろう。
もし私が、この店で食事しようか他の店にしようか迷っていて、店の中からそういう奇声が聞こえたなら、申し訳ないが「気になって落ち着かないから他の店に行こう」、となったと思う。
ほとんどの客は、入る前に店の中を覗いて「空席や雰囲気の様子」を窺っている。私でなくとも「事前に判れば逃げてしまう」ものだろう。悪意は無くても、一種の営業妨害と言える。
「そういう人は外食するな」、と言っているのではない。車椅子の人なら多少通路を塞いでも大して迷惑を掛けることも無い。だが、奇声は違う。正直なところ、気になって、料理の味が判らなかった。
そういう障害をお持ちの方が、一般の人と同様に「何も気にせず、不自由なく暮らせる社会」になれば素晴らしいことではあるが、それは「障害をお持ちの方からの理想」であって、現実には無理である。それを推し進めると別の不公平も生じてくる。「障害を持つ人は、社会の隅で小さくなって生きろ」、と言っているのでもない。自身の立場や状況を理解して、逆に、障害を持たない人に配慮することも必要なのでは、と言っているのである。
同じような光景は、デパートの物産展でも目にする。最も混雑する初日に、車椅子の人やベビーカーで子供を連れてくる母親がいる。絶対に初日でなければならない、ということも無いだろうし、混雑するのは判っているハズで、互いに危険でもある。日にちや時間をずらせば空いているのに「お構いなし」である。とくに、乳幼児の場合はベビーカーではなく「おぶい紐」「抱っこ紐」で来るとか、子供の安全の為にも工夫すべきなのだが、何も考えていない。と言うより、「自分が楽をする」ことしか頭にない。
私がもし車椅子で生活していたなら、初日の物産展には行かないし、街に出る時には比較的人通りの少ない時間帯を選ぶ。小さな子供を連れて外出するなら状況に応じてベビーカーとおぶい紐を使い分ける。奇声をあげる障害を持っている人の親なら、お店の人に事前に声を掛けたり他の客にも配慮する。
社会で過剰に「平等だ」「バリアフリーだ」「弱者救済だ」「人権だ」などという声が蔓延すると、逆に、多くの人にとっては暮らしにくくなる一面もあるだろう。街を歩いていて私は、「車椅子の人」から「はい、どいて!どいて!」と言われているような気分になる時もある。
「障害を持つ人」「持たない人」が、社会で気持ち良く共存する為には、弱者からの「気配り」も必要ではないか。
お断り
今は「障害者」という言葉も使わないようになっているのだとか。なので、「障害者」「健常者」という表現でなく、「障害をお持ちの方」「そうでない方」、という回りくどい文章になっています。私の思い違いで、「障害者」という言葉が良くないのでなく「障害」という表現が良くないということだったかも知れません。だとすると、「障害をお持ちの人」などと表現しても意味が無いことになってしまいますね。単に「丁寧に言ってるだけ」ですから。
前に書いた気もしますが、テレビで「座頭市」を観ていて、ヤクザが座頭市に「やい!どメクラ!」と叫ぶ台詞にピー音が入っていました。私は「過剰反応」だと思っています。というのも、目の見えない方、「座頭市」は観ませんでしょう。仮に観た(音だけ楽しんでいた)としても、ピー音の部分の台詞が元々は何だったのか直ぐ判る話です。そういう不自然な配慮や加工は、むしろ不快に思えます。その「どメクラ」が目あきの悪人どもを懲らしめる話なのですから。
2006年11月02日
ゲーム「上海」のクリア画面に出る言葉から
以前、PCゲーム「上海」の一面クリア時に現れる格言らしき言葉、「相手を馬鹿呼ばわりしても良いが、それを証明してはならない」、というのを紹介しましたが、再び「上海」からです。
「賢人は愚者から多くを学ぶ。賢ぶる人はそうではない」
私も「賢ぶってみせる」タイプなので気をつけなければ・・・
そういえば昔から「ぶるな、らしく」とは、よく言われていますね。
「先輩ぶるな、先輩らしくしろ!」
こう言ってやりたい上司や先輩、周辺に結構いるでしょ!?(爆)
そして、もう一つご紹介。こちらは私が愛読しているメルマガ「60億人の名言」より、アメリカの発明家グラハム・ベルの言葉。
「一つの扉が閉まれば、別の扉が開くものだ。しかし、人は閉まってしまった扉を長いあいだ、未練たっぷりに見つめてしまい自分のために開かれた扉に気づかない」
過去ばかり見て前向きに生きなければ、「見えるハズのものも見えなくなる」「ポジティブに生きよ」ということでしょうか。
私も、悦ちゃんという「閉まってしまった扉」を36年も未練たっぷりに見つめ続けています。それでも、その時どきに「良き人」が現れたりはしていますが、今も見つめ続けることが「悦ちゃんに対する礼儀」だと思っています。そう思える対象は悦ちゃんだけかな・・・。
では30年近く連れ添った元妻に対してはどうか、というと、「閉まってしまった扉」、ではないので意味合いがちょっと違います。
自分のために誰か(友人や仲間)が開けてくれていた扉・・・、
気付かずに、或いは、見ようともせず生きていませんか?
って・・・、また賢ぶってしまった^_^;
「賢人は愚者から多くを学ぶ。賢ぶる人はそうではない」
私も「賢ぶってみせる」タイプなので気をつけなければ・・・
そういえば昔から「ぶるな、らしく」とは、よく言われていますね。
「先輩ぶるな、先輩らしくしろ!」
こう言ってやりたい上司や先輩、周辺に結構いるでしょ!?(爆)
そして、もう一つご紹介。こちらは私が愛読しているメルマガ「60億人の名言」より、アメリカの発明家グラハム・ベルの言葉。
「一つの扉が閉まれば、別の扉が開くものだ。しかし、人は閉まってしまった扉を長いあいだ、未練たっぷりに見つめてしまい自分のために開かれた扉に気づかない」
過去ばかり見て前向きに生きなければ、「見えるハズのものも見えなくなる」「ポジティブに生きよ」ということでしょうか。
私も、悦ちゃんという「閉まってしまった扉」を36年も未練たっぷりに見つめ続けています。それでも、その時どきに「良き人」が現れたりはしていますが、今も見つめ続けることが「悦ちゃんに対する礼儀」だと思っています。そう思える対象は悦ちゃんだけかな・・・。
では30年近く連れ添った元妻に対してはどうか、というと、「閉まってしまった扉」、ではないので意味合いがちょっと違います。
自分のために誰か(友人や仲間)が開けてくれていた扉・・・、
気付かずに、或いは、見ようともせず生きていませんか?
って・・・、また賢ぶってしまった^_^;
2006年09月29日
正論を言えば「右」になる
お店に、久々にどんたくさんの訪問を受けた。
私に、或る本を読ませようと届けてくれたのであるが、それは置いておいて、気になる発見をした。というか、教えられた。
私は自分では思想的に「真ん中よりやや左」だと思っているのだが、どんたくさんに言わせれば「思い切り右」なんだそうである(*^^)v
だが私は国政選挙で自民党候補には一度も投票したことが無い。それは、中学の修学旅行で国会議事堂を見学した時に決意した。
うちの選挙区に、久野忠治という政治家がいた。我々が修学旅行で国会議事堂を見学した際、挨拶にやって来て「今日は京都で大事な会議があったのですが、皆さんに挨拶するためにココに来ました」と言われて、いくら6年後には選挙権を持つ中学生といっても、「大事な会議」を優先しないような人物など信用できないワケで、それはおかしい、と思ってしまったのである。
当時、うちの選挙区は全国一の無風選挙区で、定数4に対して自民3社会1、顔ぶれも全く変わらず、無投票当選させているようなものだった。国会議事堂見学に際して、自民の3人は本人が、社会の一人は秘書が挨拶に駆けつけ、自民3人は生徒全員にあまり嬉しくもない手土産を持たせてくれた。
今で言う「見学記念グッズ」で、持ち帰っても使い道の無いものとか「国会史」とかで、「非売品」と書いてあるその下に「定価200円」ともあって、「なんじゃこりゃ?」だったのだ。要は、自分の国会議員としての功績(?)を知らしめる為のグッズでしかない。
で、「このカネはどこから出ているんだろう。修学旅行で国会議事堂を見学する中学は選挙区には何十校もあるハズで、それら生徒全員に持たせるとしたなら大変な額になるし、議員の給料(歳費)では足りないハズ。自民党の議員は裏で悪いことをしているから全員に土産を持たせることが出来るんだ」、と子供心にも思えた。
その時「僕は大人になっても自民党には投票しないようにしよう」と決めて、以来一度も自民党に投票したことが無い。ただし、日本という国は自民党が政権を取っているのが一番良くて、当時も今も「野党には任せられない」とも思っている。自民に入れないのは、「一党支配が続くことは国民の為にならないこともある」との考えがあるからで、ささやかな抵抗(バランス感覚)なのだ。
うちの社長はバリバリの自民党員で、「○○君とはイデオロギーが違うからなー」、と言うが、イデオロギーは違っていない。理想を具現する為の方法が違っているだけだ、と自分では思っている。
以前も述べたが、自民党が一番「主義主張」の違う人の意見に耳を傾けられる政党で、同じ与党にあっても、公明党は創価学会が支持基盤であるから本来は人の意見など聞かない政党だと思う。そういう意味では、私は自民党を「なんでも反対野党」より評価している。
話が横道に逸れたが、どんたくさんから「記事の内容からすると思い切り右ですよ」と指摘されてしまったけど、私自身は右とか左とか意識せずに「その時思ったこと感じたこと」をそのまま書いているに過ぎない。だが、そうすると今の世の中では「圧倒的に右」という内容になってしまう。昔は「正論を述べれば左」ということも多かったハズで、ここ数十年で国際的にも国内的にも日本の置かれている環境が変わってきているのだと思われる。つまり、私のスタンスは変わっていないのに、自転や公転によって周りが変わってしまっているのだろう。
そのことにいつまでも気付かないでいる(気付こうとしない)代表格が「朝日新聞」なんだと思う。朝日は、「誰が正しいか、ではなく、何が正しいか」という考え方は出来ないんだろう。昔の正論が今も正論である、とは限らないのに、時代の変化に適応できないでいるのだから、最早「公器」とは言えない。
まあ、どんたくさんからどう言われようと、私自身は「真ん中よりやや左」だと思っているし、これからもそのスタンスは変えない
私に、或る本を読ませようと届けてくれたのであるが、それは置いておいて、気になる発見をした。というか、教えられた。
私は自分では思想的に「真ん中よりやや左」だと思っているのだが、どんたくさんに言わせれば「思い切り右」なんだそうである(*^^)v
だが私は国政選挙で自民党候補には一度も投票したことが無い。それは、中学の修学旅行で国会議事堂を見学した時に決意した。
うちの選挙区に、久野忠治という政治家がいた。我々が修学旅行で国会議事堂を見学した際、挨拶にやって来て「今日は京都で大事な会議があったのですが、皆さんに挨拶するためにココに来ました」と言われて、いくら6年後には選挙権を持つ中学生といっても、「大事な会議」を優先しないような人物など信用できないワケで、それはおかしい、と思ってしまったのである。
当時、うちの選挙区は全国一の無風選挙区で、定数4に対して自民3社会1、顔ぶれも全く変わらず、無投票当選させているようなものだった。国会議事堂見学に際して、自民の3人は本人が、社会の一人は秘書が挨拶に駆けつけ、自民3人は生徒全員にあまり嬉しくもない手土産を持たせてくれた。
今で言う「見学記念グッズ」で、持ち帰っても使い道の無いものとか「国会史」とかで、「非売品」と書いてあるその下に「定価200円」ともあって、「なんじゃこりゃ?」だったのだ。要は、自分の国会議員としての功績(?)を知らしめる為のグッズでしかない。
で、「このカネはどこから出ているんだろう。修学旅行で国会議事堂を見学する中学は選挙区には何十校もあるハズで、それら生徒全員に持たせるとしたなら大変な額になるし、議員の給料(歳費)では足りないハズ。自民党の議員は裏で悪いことをしているから全員に土産を持たせることが出来るんだ」、と子供心にも思えた。
その時「僕は大人になっても自民党には投票しないようにしよう」と決めて、以来一度も自民党に投票したことが無い。ただし、日本という国は自民党が政権を取っているのが一番良くて、当時も今も「野党には任せられない」とも思っている。自民に入れないのは、「一党支配が続くことは国民の為にならないこともある」との考えがあるからで、ささやかな抵抗(バランス感覚)なのだ。
うちの社長はバリバリの自民党員で、「○○君とはイデオロギーが違うからなー」、と言うが、イデオロギーは違っていない。理想を具現する為の方法が違っているだけだ、と自分では思っている。
以前も述べたが、自民党が一番「主義主張」の違う人の意見に耳を傾けられる政党で、同じ与党にあっても、公明党は創価学会が支持基盤であるから本来は人の意見など聞かない政党だと思う。そういう意味では、私は自民党を「なんでも反対野党」より評価している。
話が横道に逸れたが、どんたくさんから「記事の内容からすると思い切り右ですよ」と指摘されてしまったけど、私自身は右とか左とか意識せずに「その時思ったこと感じたこと」をそのまま書いているに過ぎない。だが、そうすると今の世の中では「圧倒的に右」という内容になってしまう。昔は「正論を述べれば左」ということも多かったハズで、ここ数十年で国際的にも国内的にも日本の置かれている環境が変わってきているのだと思われる。つまり、私のスタンスは変わっていないのに、自転や公転によって周りが変わってしまっているのだろう。
そのことにいつまでも気付かないでいる(気付こうとしない)代表格が「朝日新聞」なんだと思う。朝日は、「誰が正しいか、ではなく、何が正しいか」という考え方は出来ないんだろう。昔の正論が今も正論である、とは限らないのに、時代の変化に適応できないでいるのだから、最早「公器」とは言えない。
まあ、どんたくさんからどう言われようと、私自身は「真ん中よりやや左」だと思っているし、これからもそのスタンスは変えない
2006年09月18日
変わりゆく郵便局
かつて、郵便局に対して「こんな手厳しい記事」を書いていたが、
最近、郵便局の集配業務関連のサービスは実に良くなっている。
民営化、どころか民間以上、とも思える。
先日オークションで落札した或る商品が定形外で発送されてきた。
16時05分に配達されたが、うちのもたまたま買物に出ていて不在だったので、郵便受けに入らない形状だったこともあって書留郵便ではなかったのだが不在通知が入っていた。
19時までに連絡すると当日再配達してくれる、とのことなので私が帰宅して直ぐ18時40分に本局に電話すると、「本日19時から21時までの間に再配達いたします」とのこと。しかも無料である。
電話に出た集配課の年配の女性も感じが良かった。一昔前とは雲泥の差である。今は郵政公社だが民間との競争は始まっている。
20時過ぎに再配達してくれたのだが、ふと配達員さんの顔を見ると「私が大嫌いな郵便局」の職員の中で、普段から唯一仲良くしているオジサンだった。会社に配達してくれる時も実に感じが良いし、そのオジサンが書留など配達してくれた時には必ずドリンク剤とか(夏場なら)缶ジュースとか渡すようにしている。
そのオジサン、受け取りにドアを開けた私の顔を見ると、「あれ〜、こちらにお住まいだったんですか」、と笑う。もう覚えられちゃったから、これからは家でも会社でも不在にしていたなら「郵便物は居る方に届く」ことになる。そういうオジサンである(*^^)v
ところで、トルコ旅行の際、先生がこんな話をしていた。
「半田じゃあな、都市銀行の支店が統合で減っちゃって不便になっとるぞ。その分、信用金庫が大きくなっとるんだわ。こいで郵便局も減ってったらどえらい不便になるでかんわ」
私は、基本的に「郵政民営化」自体は賛成だが、「丸ごと」にすべきでは無かったのでは、と今も思っている。サービス(感じ)が良くなっていることだけを見れば「民営化大成功」だが、当然にこれからは採算が重視されて地方の郵便局は結局消えていく運命だろうし、都会より進んだ高齢化社会の田舎では、病院(の待合室)と並ぶ地域のコミュニティの場が失われることになる。窓口でのちょっとした会話がお年寄りには大切だし、ATMだけ置かれても扱えないだろう。
小泉さんの遺した「郵政民営化」のツケを、これから国民がどう負担することになるのだろうか。日頃、感情的には「郵便局など潰れてしまえ!」と思っているが、都会と地方の格差が更に拡がることになるのは判っているから、心中は複雑なものがある。
で、私が、その郵便局のオジサンにドリンク剤や缶ジュースを持たせるのは、実は「いつもご苦労様」という労いからではない。腹の中では今も(過去ログにある)当時のことを根に持っていて「潰れてしまえ!」と思っているのに、そうとは知らず毎度感じ良く接してもらっているので「何となく負い目を感じているから」である。
過去ログに書いた一件も、今なら「直ぐ再配達いたします」、と言ってくれたんだろうな・・・、と感慨深いものがある。
最近、郵便局の集配業務関連のサービスは実に良くなっている。
民営化、どころか民間以上、とも思える。
先日オークションで落札した或る商品が定形外で発送されてきた。
16時05分に配達されたが、うちのもたまたま買物に出ていて不在だったので、郵便受けに入らない形状だったこともあって書留郵便ではなかったのだが不在通知が入っていた。
19時までに連絡すると当日再配達してくれる、とのことなので私が帰宅して直ぐ18時40分に本局に電話すると、「本日19時から21時までの間に再配達いたします」とのこと。しかも無料である。
電話に出た集配課の年配の女性も感じが良かった。一昔前とは雲泥の差である。今は郵政公社だが民間との競争は始まっている。
20時過ぎに再配達してくれたのだが、ふと配達員さんの顔を見ると「私が大嫌いな郵便局」の職員の中で、普段から唯一仲良くしているオジサンだった。会社に配達してくれる時も実に感じが良いし、そのオジサンが書留など配達してくれた時には必ずドリンク剤とか(夏場なら)缶ジュースとか渡すようにしている。
そのオジサン、受け取りにドアを開けた私の顔を見ると、「あれ〜、こちらにお住まいだったんですか」、と笑う。もう覚えられちゃったから、これからは家でも会社でも不在にしていたなら「郵便物は居る方に届く」ことになる。そういうオジサンである(*^^)v
ところで、トルコ旅行の際、先生がこんな話をしていた。
「半田じゃあな、都市銀行の支店が統合で減っちゃって不便になっとるぞ。その分、信用金庫が大きくなっとるんだわ。こいで郵便局も減ってったらどえらい不便になるでかんわ」
私は、基本的に「郵政民営化」自体は賛成だが、「丸ごと」にすべきでは無かったのでは、と今も思っている。サービス(感じ)が良くなっていることだけを見れば「民営化大成功」だが、当然にこれからは採算が重視されて地方の郵便局は結局消えていく運命だろうし、都会より進んだ高齢化社会の田舎では、病院(の待合室)と並ぶ地域のコミュニティの場が失われることになる。窓口でのちょっとした会話がお年寄りには大切だし、ATMだけ置かれても扱えないだろう。
小泉さんの遺した「郵政民営化」のツケを、これから国民がどう負担することになるのだろうか。日頃、感情的には「郵便局など潰れてしまえ!」と思っているが、都会と地方の格差が更に拡がることになるのは判っているから、心中は複雑なものがある。
で、私が、その郵便局のオジサンにドリンク剤や缶ジュースを持たせるのは、実は「いつもご苦労様」という労いからではない。腹の中では今も(過去ログにある)当時のことを根に持っていて「潰れてしまえ!」と思っているのに、そうとは知らず毎度感じ良く接してもらっているので「何となく負い目を感じているから」である。
過去ログに書いた一件も、今なら「直ぐ再配達いたします」、と言ってくれたんだろうな・・・、と感慨深いものがある。
2006年09月16日
麻原彰晃死刑確定のニュースで考えたこと
オウム真理教の麻原彰晃こと松本智津夫の死刑が確定した。
逮捕から11年、初公判から10年の歳月が流れている。麻原一人の裁判だけでも、どれだけの税金が使われたことか。何億どころか数十億に及ぶだろう。民主主義や正義や人権を守る為には必要な支出ではあろうが、やはり納得がいかない。
オウムはアーレフと名前を変えて、国内だけでも今も1200人の信者が活動を続けているという。上佑氏が別の宗教団体を設立するとの噂もあるが、果たして宗教法人として認められるものだろうか。
ところで、教団がどういう経緯で「道場」にするためのマンションなどを手に入れたのか不明だが、分譲か賃貸かは別にして、他の入居者から不動産屋が損害賠償を求められて訴えられたなら、「カルト教団だと知り得ることが出来なかった」ことを証明できない限り、まず不動産屋に勝ち目は無い。それも迷惑な話である。
分譲なら、買主がローンを組まずに即金で用意できれば審査も不要で問題なく買えてしまう。問題は賃貸である。建物の一室や店舗事務所を借りる場合、正直に名乗れば、まず100%断られてしまう。必ず「内容を偽って」申込書を書いているハズである。不動産屋や貸主が見破れずに契約してしまい、後で住民とのトラブルが発生しても、借主は「他に借りられるアテなど無い」のだから素直に出て行くワケもなく、当然に矛先は不動産屋に向けられることになる。
向こうも「何とか借りたい」と騙す気で掛かってくるワケだから、海千山千の不動産屋といえどもそう簡単に見破ることは出来ない。
カルト教団に限らず、暴力団であっても同じである。「まさか、そんなだとは思いませんでした。私も騙されました」ではダメで、「最大限に注意を払って充分な調査をしたにも拘らず、それでも見抜くことが出来なかった」との、いわば「不可抗力であった」と認定されるほどの内容が絶対的な要件になる。要は、「被害があった」=「不動産屋の責任」という図式が出来上がっているのである。
それに関連しては、かつてこんな記事も書いていた。
カルト宗教も暴力団も、不動産屋からすれば大差ないことになる。
麻原死刑確定のニュースを見ながら、残された信者はこれからどうするんだろう、と考えてしまった。今さら家にも帰れず、アーレフを捨てることも出来ず、社会からも認知されず、結局、皆でまとまって生きていくしか出来ないんだろうな、と思った。そういえば、彷徨を続ける「真っ白な装束の教団」なんてのも有ったっけ。
宗教は「人の弱み」に付け込んで深く根を張ってくる。
そこも、暴力団と同じ、なんだろう。
逮捕から11年、初公判から10年の歳月が流れている。麻原一人の裁判だけでも、どれだけの税金が使われたことか。何億どころか数十億に及ぶだろう。民主主義や正義や人権を守る為には必要な支出ではあろうが、やはり納得がいかない。
オウムはアーレフと名前を変えて、国内だけでも今も1200人の信者が活動を続けているという。上佑氏が別の宗教団体を設立するとの噂もあるが、果たして宗教法人として認められるものだろうか。
ところで、教団がどういう経緯で「道場」にするためのマンションなどを手に入れたのか不明だが、分譲か賃貸かは別にして、他の入居者から不動産屋が損害賠償を求められて訴えられたなら、「カルト教団だと知り得ることが出来なかった」ことを証明できない限り、まず不動産屋に勝ち目は無い。それも迷惑な話である。
分譲なら、買主がローンを組まずに即金で用意できれば審査も不要で問題なく買えてしまう。問題は賃貸である。建物の一室や店舗事務所を借りる場合、正直に名乗れば、まず100%断られてしまう。必ず「内容を偽って」申込書を書いているハズである。不動産屋や貸主が見破れずに契約してしまい、後で住民とのトラブルが発生しても、借主は「他に借りられるアテなど無い」のだから素直に出て行くワケもなく、当然に矛先は不動産屋に向けられることになる。
向こうも「何とか借りたい」と騙す気で掛かってくるワケだから、海千山千の不動産屋といえどもそう簡単に見破ることは出来ない。
カルト教団に限らず、暴力団であっても同じである。「まさか、そんなだとは思いませんでした。私も騙されました」ではダメで、「最大限に注意を払って充分な調査をしたにも拘らず、それでも見抜くことが出来なかった」との、いわば「不可抗力であった」と認定されるほどの内容が絶対的な要件になる。要は、「被害があった」=「不動産屋の責任」という図式が出来上がっているのである。
それに関連しては、かつてこんな記事も書いていた。
カルト宗教も暴力団も、不動産屋からすれば大差ないことになる。
麻原死刑確定のニュースを見ながら、残された信者はこれからどうするんだろう、と考えてしまった。今さら家にも帰れず、アーレフを捨てることも出来ず、社会からも認知されず、結局、皆でまとまって生きていくしか出来ないんだろうな、と思った。そういえば、彷徨を続ける「真っ白な装束の教団」なんてのも有ったっけ。
宗教は「人の弱み」に付け込んで深く根を張ってくる。
そこも、暴力団と同じ、なんだろう。
2006年09月10日
乙武氏のブログ炎上(?)に思う
秋篠宮家の男児誕生について、率直に感想を述べた乙武洋匡氏のブログが炎上しているとか。おかしな話である。
彼は堂々と身分を明らかにし、コメントもトラックバックも受け付けている。内容も私ほど辛辣ではないし、これといって「悪意」があったとも認められない。
コメントに目を通すと、ほとんど2チャンネルの様相である。しかも、彼の身体的特徴を駄ジャレに用いていたりして品格の欠片もない。
私個人は、乙武氏は「謝罪する必要はなかったのでは」と思う。改めての補足だけで良かったのでは、と思うのだ。いや、補足さえも不要だったであろう。説明など無くても、「どういうつもりで書いているか」くらい、普通の知能を持ち合わせていたなら容易に推測できるのだから。それを解かろうとせず攻撃するのだからタチが悪い。みんなで袋叩きにして「ザマアみろ!」と唾を吐きかけているワケで、時代劇に出てくる宿場のゴロツキと何ら変わりない。
日本では「皇室への批判」はタブーになっていて、マスコミも何があっても絶対に悪くは言わないし書かない。ちょっと疑問を呈したり異議を唱えようものなら番組から下ろされてしまう。それではまるで子供を甘やかすようなものだ。日本の皇室はお行儀が良くて、ふだんは当たり障りの無い国事しかしていないから特段ケチの付けようがない、ということもあるだろうが、(私は高く評価している)皇太子殿下による「宮内庁による雅子さまへの人格否定」発言や、それを批判した秋篠宮の記者会見などでは、もっと自由にいろんな意見が出てきても良かったのでは、と思う。批判的な意見は封印すべき、なんてこともない。
乙武氏は、秋篠宮に男児が産まれて、それを(当然とはいえ)大騒ぎするマスコミに疑問を投げかけたにすぎない。プロ野球ファンが全員「巨人ファン」でなければならない、という理屈は無い。私は思想的には右でも左でもないが、「日本国民なら男児誕生を喜ぶのが当たり前」という価値観を強要するような意見には違和感を覚える。
私の後輩に、かつて「長島を好きでない、という奴は人間ではない」と言い切る男がいた。「戦国時代の武将のうちでは織田信長が最も偉大で、それが解からない奴は歴史を知らない馬鹿だ」とも言っていた。正しい部分もあるが、自分と違う考え方を受け入れようとしないで見下す姿勢は、ただただ「はた迷惑」なだけであった。
それと似たような人間が集まって乙武氏を袋叩きにしたのである。
言わば「集団ヒステリー」のようなものだ。
自サイトで自分の意見を率直に書くのと、その記事に「思ったこと」をコメントするのとでは意味合いが違う。(著名人は別にして)「書き手も匿名で好きなことを書いているんだから、こっちも匿名で好き勝手にコメントしてよい」、という理屈もまた通らない。ネット社会には、それが解かっていない人間が実に多い。
私のサイトにも時折、思い出したように「低レベルで陰険なコメント」が入る時がある。現在はコメントを受け付けていないから自サイトでボロクソに書いていたり、人様のサイトにまで飛んで行ってコメント欄で私を批判しているケースもある。ご苦労なことである。
もし「別の見方や意見」を書きたいのなら、穏やかに「言葉を選んで」記事にするなりコメントすればよい。そのほうが相手に的確に伝わるものだが、そうしないのは、自分の考え方を伝えたいのでなく、相手を傷付けたいから、である。
自分と違う見方や意見、というものがあっても良いではないか。そして特段の事情が無い限り封印させる必要も無いもの、と思う。
※ 文中には乙武氏のサイトのリンクをあえて貼りません。それに、誰よりも辛い試練を常に前向きな姿勢で明るく乗り越えてきた方ですから、とくに心配もしていません。ひょっとすると、乙武氏の記事の内容は、乙武氏だからこその感想、なのかも知れませんね。人にはそれぞれ置かれた立場での苦労はあるものですが、平凡に生きている私たちとは別の視点や価値観を持っておられたとして当たり前なのであって、反対意見の人たちも「先ず相手の人格を認める」ことから始めるべきだったのでは、と思います。乙武氏を擁護するとかしないとか、それ以前の問題ですね。
彼は堂々と身分を明らかにし、コメントもトラックバックも受け付けている。内容も私ほど辛辣ではないし、これといって「悪意」があったとも認められない。
コメントに目を通すと、ほとんど2チャンネルの様相である。しかも、彼の身体的特徴を駄ジャレに用いていたりして品格の欠片もない。
私個人は、乙武氏は「謝罪する必要はなかったのでは」と思う。改めての補足だけで良かったのでは、と思うのだ。いや、補足さえも不要だったであろう。説明など無くても、「どういうつもりで書いているか」くらい、普通の知能を持ち合わせていたなら容易に推測できるのだから。それを解かろうとせず攻撃するのだからタチが悪い。みんなで袋叩きにして「ザマアみろ!」と唾を吐きかけているワケで、時代劇に出てくる宿場のゴロツキと何ら変わりない。
日本では「皇室への批判」はタブーになっていて、マスコミも何があっても絶対に悪くは言わないし書かない。ちょっと疑問を呈したり異議を唱えようものなら番組から下ろされてしまう。それではまるで子供を甘やかすようなものだ。日本の皇室はお行儀が良くて、ふだんは当たり障りの無い国事しかしていないから特段ケチの付けようがない、ということもあるだろうが、(私は高く評価している)皇太子殿下による「宮内庁による雅子さまへの人格否定」発言や、それを批判した秋篠宮の記者会見などでは、もっと自由にいろんな意見が出てきても良かったのでは、と思う。批判的な意見は封印すべき、なんてこともない。
乙武氏は、秋篠宮に男児が産まれて、それを(当然とはいえ)大騒ぎするマスコミに疑問を投げかけたにすぎない。プロ野球ファンが全員「巨人ファン」でなければならない、という理屈は無い。私は思想的には右でも左でもないが、「日本国民なら男児誕生を喜ぶのが当たり前」という価値観を強要するような意見には違和感を覚える。
私の後輩に、かつて「長島を好きでない、という奴は人間ではない」と言い切る男がいた。「戦国時代の武将のうちでは織田信長が最も偉大で、それが解からない奴は歴史を知らない馬鹿だ」とも言っていた。正しい部分もあるが、自分と違う考え方を受け入れようとしないで見下す姿勢は、ただただ「はた迷惑」なだけであった。
それと似たような人間が集まって乙武氏を袋叩きにしたのである。
言わば「集団ヒステリー」のようなものだ。
自サイトで自分の意見を率直に書くのと、その記事に「思ったこと」をコメントするのとでは意味合いが違う。(著名人は別にして)「書き手も匿名で好きなことを書いているんだから、こっちも匿名で好き勝手にコメントしてよい」、という理屈もまた通らない。ネット社会には、それが解かっていない人間が実に多い。
私のサイトにも時折、思い出したように「低レベルで陰険なコメント」が入る時がある。現在はコメントを受け付けていないから自サイトでボロクソに書いていたり、人様のサイトにまで飛んで行ってコメント欄で私を批判しているケースもある。ご苦労なことである。
もし「別の見方や意見」を書きたいのなら、穏やかに「言葉を選んで」記事にするなりコメントすればよい。そのほうが相手に的確に伝わるものだが、そうしないのは、自分の考え方を伝えたいのでなく、相手を傷付けたいから、である。
自分と違う見方や意見、というものがあっても良いではないか。そして特段の事情が無い限り封印させる必要も無いもの、と思う。
※ 文中には乙武氏のサイトのリンクをあえて貼りません。それに、誰よりも辛い試練を常に前向きな姿勢で明るく乗り越えてきた方ですから、とくに心配もしていません。ひょっとすると、乙武氏の記事の内容は、乙武氏だからこその感想、なのかも知れませんね。人にはそれぞれ置かれた立場での苦労はあるものですが、平凡に生きている私たちとは別の視点や価値観を持っておられたとして当たり前なのであって、反対意見の人たちも「先ず相手の人格を認める」ことから始めるべきだったのでは、と思います。乙武氏を擁護するとかしないとか、それ以前の問題ですね。
2006年07月30日
「男は皆喜ぶ」と思ったら大間違い
昨日は昭和記念公園の花火大会であった。
例年、隅田川の花火大会と日程が重なっていて、TV東京の中継と地元CA−TVの中継を交互に観ている。というか、CMの間だけ昭和記念公園の花火を観ているのだが、なんともショボい。
かつては一発上がるごとに「只今の一尺玉は、株式会社○○水道設備工業さんの提供でした」などどアナウンスが入ったりするから何ともシラける。しかも、打ち上げの間隔が長い。一発上がったのを見てからトイレで用足しして出てきても未だ次のが上がっていない。
どうせなら単発で上げないで、3分くらいの間に纏めて打ち上げて、「3分間で全て観せます、必見です」、とでもやったほうがユニークで名物花火大会にもなる。あの玉数と内容で2時間も持たせようとするからいけない。どうしても全国の名だたる花火大会と比べてしまうし見劣りしてしまう。
しかしなが、そんな花火より、もっと見たくないものがある。
それは・・・
例年、隅田川の花火大会と日程が重なっていて、TV東京の中継と地元CA−TVの中継を交互に観ている。というか、CMの間だけ昭和記念公園の花火を観ているのだが、なんともショボい。
かつては一発上がるごとに「只今の一尺玉は、株式会社○○水道設備工業さんの提供でした」などどアナウンスが入ったりするから何ともシラける。しかも、打ち上げの間隔が長い。一発上がったのを見てからトイレで用足しして出てきても未だ次のが上がっていない。
どうせなら単発で上げないで、3分くらいの間に纏めて打ち上げて、「3分間で全て観せます、必見です」、とでもやったほうがユニークで名物花火大会にもなる。あの玉数と内容で2時間も持たせようとするからいけない。どうしても全国の名だたる花火大会と比べてしまうし見劣りしてしまう。
しかしなが、そんな花火より、もっと見たくないものがある。
それは・・・
2006年07月24日
「イメージ」することの大切さ
私が愛読しているメルマガ「今日の名言」から
技術が追いつかないのは救いがある。
イメージが追いつかないのは致命傷となる。
(宮里 優・・・プロゴルファー宮里聖志・優作・藍の父親)
読んで、「う〜ん・・・」と唸ってしまいました。
ふつうに考えれば、「イメージなんて抽象的なもので、技術は具体的なもの」だから、「イメージより技術のほうが大切」、と思いそうなものですが、ゴルフに関してはそうではないんですね。この言葉の意味が理解できる方、少ないと思います。かく言う私も・・・ですが。
以前、ゴルフ会員権のセールスをしていた時、先輩から「ゴルフはタイミングのスポーツだよ」、と言われて、それを聞いた私は「ほなアホな!?」と思いました。それで、「野球みたいに投げられたボールを打つ、というならタイミングのスポーツと言えるのでしょうが、止まっているボールを打つのにタイミングは無いでしょう」、と反論しました。すると、先輩は「今に解かる」、と笑うのです。
で、会社のコンペでコースに出てみると・・・、
止まっているボールに当たらないのですよ、これが(爆)
要するに「空振り」するのですね、力めば力むほど・・・。
それを見ていた先輩が、「打ちながら頭の中で『チャー・シュー・メン!』と唱えてみろ」、と言うのです。「イチ・ニ・サン!」ではありません、「チャー・シュー・メン」です。すると、当たるのですよ、これが。不思議なことに・・・。「なるほど・・・」と思いました。
翌月、会社のコンペの前日に或るお客さんを訪問すると、「今晩これを観てごらん」と、イメージトレーニングのビデオ(たしか三井物産で出していた商品かと思うのですが)を貸してくださり、家に帰って観てみると、それは、アメリカのアル・ガイバーガーが「ただひたすらスイングしているもの」でした。
ティーショット、アプローチショット、バンカーショット、パッティング、それぞれの場面で、ふつうのスピードとスローモーションで、真上、正面、背面、後ろから、それぞれ何十回も繰り返されるんですね。
BGMも「眠くなるような音楽」で解説も一切ありませんでした。ただ、コースに出ると、頭の中ではその「ゆったりしたBGM」が鳴り続けているのです^_^;
で、その「イメージトレーニング」の効果の程は、というと・・・、
普段のスコアから「−20」でした。いえ、その、ハーフで・・・(爆)
さて、ゴルフ、と言えば、私の最も感銘した名言をひとつ・・・、
球聖と言われ、マスターズが開催される「オーガスタ・ナショナル」の設計者でもあるボビー・ジョーンズの言葉、
「私は、勝った試合から学んだものはほとんど無い。負けた試合にこそ学ぶべきものがある」
技術が追いつかないのは救いがある。
イメージが追いつかないのは致命傷となる。
(宮里 優・・・プロゴルファー宮里聖志・優作・藍の父親)
読んで、「う〜ん・・・」と唸ってしまいました。
ふつうに考えれば、「イメージなんて抽象的なもので、技術は具体的なもの」だから、「イメージより技術のほうが大切」、と思いそうなものですが、ゴルフに関してはそうではないんですね。この言葉の意味が理解できる方、少ないと思います。かく言う私も・・・ですが。
以前、ゴルフ会員権のセールスをしていた時、先輩から「ゴルフはタイミングのスポーツだよ」、と言われて、それを聞いた私は「ほなアホな!?」と思いました。それで、「野球みたいに投げられたボールを打つ、というならタイミングのスポーツと言えるのでしょうが、止まっているボールを打つのにタイミングは無いでしょう」、と反論しました。すると、先輩は「今に解かる」、と笑うのです。
で、会社のコンペでコースに出てみると・・・、
止まっているボールに当たらないのですよ、これが(爆)
要するに「空振り」するのですね、力めば力むほど・・・。
それを見ていた先輩が、「打ちながら頭の中で『チャー・シュー・メン!』と唱えてみろ」、と言うのです。「イチ・ニ・サン!」ではありません、「チャー・シュー・メン」です。すると、当たるのですよ、これが。不思議なことに・・・。「なるほど・・・」と思いました。
翌月、会社のコンペの前日に或るお客さんを訪問すると、「今晩これを観てごらん」と、イメージトレーニングのビデオ(たしか三井物産で出していた商品かと思うのですが)を貸してくださり、家に帰って観てみると、それは、アメリカのアル・ガイバーガーが「ただひたすらスイングしているもの」でした。
ティーショット、アプローチショット、バンカーショット、パッティング、それぞれの場面で、ふつうのスピードとスローモーションで、真上、正面、背面、後ろから、それぞれ何十回も繰り返されるんですね。
BGMも「眠くなるような音楽」で解説も一切ありませんでした。ただ、コースに出ると、頭の中ではその「ゆったりしたBGM」が鳴り続けているのです^_^;
で、その「イメージトレーニング」の効果の程は、というと・・・、
普段のスコアから「−20」でした。いえ、その、ハーフで・・・(爆)
さて、ゴルフ、と言えば、私の最も感銘した名言をひとつ・・・、
球聖と言われ、マスターズが開催される「オーガスタ・ナショナル」の設計者でもあるボビー・ジョーンズの言葉、
「私は、勝った試合から学んだものはほとんど無い。負けた試合にこそ学ぶべきものがある」
2006年07月06日
「様」とか「御中」くらい書き足しなよ
商売柄、契約書などを郵送することが多々ある。返信を求める場合、当然に「当方の宛先を書き切手も貼った」返信用封筒を同封するのだが、当方の宛名には最初から(自分で)「御中」などとは書かない。よく「先様に面倒を掛けさせないよう」という配慮(?)で最初から書かれていたりするが、それは「やりすぎ」だと思う。
で、送り返されてくる際、実は半分くらいは「様」とか「御中」とかが書き足されていない。それは、とても不思議なことだ。
傾向としては、同業者からの返送にはほぼ100%書き足してあって、法人借主は80%、借主の連帯保証人(多くは親)とかは50%、そして、家主さんに至っては30〜40%くらいである。
相手からすれば、単に事務的な返信であって、例えば「書類一枚送り返すだけなんだから」くらいの考えなんだろうが、それで人間性や人柄が知れてしまったり誤解をされることもあるだろう。
投函する前に、「不備が無いか」確認すらしていないことにもなる。
私が気になるのはそれだけではない。
送付の際には、出来ればメモの一枚でもいいから添えた方がよい。「いつもお世話になります。遅くなりましたが書類の準備が整いましたのでご送付申し上げます。どうぞご査収ください。今後ともどうぞ宜しくお願いします」、これだけでいい。面倒なら手書きでなくとも定型の印刷物でもよい。それだけで印象はずいぶん違ってくる。
添え状が面倒なら、最低限、封筒の表に「契約書在中」とか「書類在中」と書いておけば、添え状無しでもどうにか事足りる。
昔、現役時代の王貞治氏がTV−CMで、子供たち全員のサイン要求に応じ、「子供の頃、与那嶺さんからサインをもらって嬉しかったことを今も覚えている。今、私のサインで喜んでくれる人がいる。王貞治と書くのに2秒とはかからないのだから」、と語っていた。
今、ちょっと売れてくると「差し出されたサイン帳を無視する」タレントやスポーツ選手は多い。どれだけ活躍しようが売れようが、ファンの一人一人を大切に出来ないようでは「プロ」ではない。
同じく、「様」や「御中」を書き足すのにどれだけの手間が掛かるというのか。「そんなことで評価を下げる結果になることもある」ということに何故思い至らないのだろうか。
他の人のことは知らないが、私はチェックを怠らない。
で、送り返されてくる際、実は半分くらいは「様」とか「御中」とかが書き足されていない。それは、とても不思議なことだ。
傾向としては、同業者からの返送にはほぼ100%書き足してあって、法人借主は80%、借主の連帯保証人(多くは親)とかは50%、そして、家主さんに至っては30〜40%くらいである。
相手からすれば、単に事務的な返信であって、例えば「書類一枚送り返すだけなんだから」くらいの考えなんだろうが、それで人間性や人柄が知れてしまったり誤解をされることもあるだろう。
投函する前に、「不備が無いか」確認すらしていないことにもなる。
私が気になるのはそれだけではない。
送付の際には、出来ればメモの一枚でもいいから添えた方がよい。「いつもお世話になります。遅くなりましたが書類の準備が整いましたのでご送付申し上げます。どうぞご査収ください。今後ともどうぞ宜しくお願いします」、これだけでいい。面倒なら手書きでなくとも定型の印刷物でもよい。それだけで印象はずいぶん違ってくる。
添え状が面倒なら、最低限、封筒の表に「契約書在中」とか「書類在中」と書いておけば、添え状無しでもどうにか事足りる。
昔、現役時代の王貞治氏がTV−CMで、子供たち全員のサイン要求に応じ、「子供の頃、与那嶺さんからサインをもらって嬉しかったことを今も覚えている。今、私のサインで喜んでくれる人がいる。王貞治と書くのに2秒とはかからないのだから」、と語っていた。
今、ちょっと売れてくると「差し出されたサイン帳を無視する」タレントやスポーツ選手は多い。どれだけ活躍しようが売れようが、ファンの一人一人を大切に出来ないようでは「プロ」ではない。
同じく、「様」や「御中」を書き足すのにどれだけの手間が掛かるというのか。「そんなことで評価を下げる結果になることもある」ということに何故思い至らないのだろうか。
他の人のことは知らないが、私はチェックを怠らない。
2006年07月01日
確率的に「美人の多い」職種は・・・
元々「見た目」も採用基準になってる航空会社の客室乗務員とか、女子アナを除けば、圧倒的に美人が多い職種は・・・、
歯科衛生士、だと思いますね。
今まで、美人でない歯科衛生士さんに当たったことがありません。
しかも皆さん若い女性ばかりで、どうしてなんでしょうね。昨日まで治療を受けていた歯科医院もそうなんですよ。あの「キーーーン」という音は苦手ですが、歯石を取るため歯科衛生士さんから「はい、お口あけてくださいね〜」って言われると、胸がトキメキます。
確率的には低いかも知れませんが、時々、大手の不動産業者の女性営業さんがチラシを直に届けに来ることがあって、凄い美人だったりします。男性だと「うち、売買はやってないんで・・・」なんて面倒くさそうに受け取りますが、美人だと「頑張ります」って言っちゃいますもんね。でもって、出て行った後、後ろ姿をいつまでも見送ってたりします。わざわざ外に出て、誰か人でも待ってるかのように(^^♪
で、本題は「ここまで」でお仕舞い。ここからは余談(*^^)v
続きを読む
歯科衛生士、だと思いますね。
今まで、美人でない歯科衛生士さんに当たったことがありません。
しかも皆さん若い女性ばかりで、どうしてなんでしょうね。昨日まで治療を受けていた歯科医院もそうなんですよ。あの「キーーーン」という音は苦手ですが、歯石を取るため歯科衛生士さんから「はい、お口あけてくださいね〜」って言われると、胸がトキメキます。
確率的には低いかも知れませんが、時々、大手の不動産業者の女性営業さんがチラシを直に届けに来ることがあって、凄い美人だったりします。男性だと「うち、売買はやってないんで・・・」なんて面倒くさそうに受け取りますが、美人だと「頑張ります」って言っちゃいますもんね。でもって、出て行った後、後ろ姿をいつまでも見送ってたりします。わざわざ外に出て、誰か人でも待ってるかのように(^^♪
で、本題は「ここまで」でお仕舞い。ここからは余談(*^^)v
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2006年06月29日
医師の家庭で起きた事件で思うこと
親が、医者とか政治家だったりすると、自分の子供に跡を継がせるケースが多いのですが、「旨味があるから」なんでしょうね。
なんだかんだ言ったところで、「尊敬されてもしんどいだけでカネにならないもの」なら、絶対に子供に継がせようなんて考えませんよ。これが「弁護士」とか「外交官」なら、難しい試験がありますから、親が希望しても継がせられるかどうか分かりませんが、医学部くらい、カネさえあって大学を選り好みしなければ何処かに入れます。入学してしまえば国家試験など普通に勉強してさえいれば受かるもの、だと思いますよ。現に、同級生にもそういうのいますから。
なので奈良の事件、あの長男の成績は「どの大学にも合格しない」というほど悪くなかったと思いますね。もちろん、開業医でなければ「裏ガネ」を積めるほど稼げない、とのことですし、親は「ちゃんと勉強して実力で」合格させようと考えたのでしょうけど、一流大学出身でなければ名医になれないワケじゃなし、「なんであそこまで子供を追い込んじゃったのかな」、と疑問を感じます。
医者になりたい、というのは本人の希望でもあったようですが、医者の子供が医者に向いてるかどうかは別の問題でしょうに。
でね、政治家が引退する時なんかも、自分の子供を後継者に指名することが実に多く、たしかに地盤(支持者)の意向も大きく働いているとは思いますが、そうであっても旨味が無いなら、しがらみだけの理由で「跡を継がせようとはしないもの」でしょう。
世襲は、政権政党だけでなく野党にも多く見られますもんね。
私なんか、長男が高校生の時、「僕はお父さんと一緒に不動産屋しようかな」、と言ったんで反射的にぶん殴りましたよ。「今から、楽しよう、などと考えていてどうする!『僕は僕、親父とは違う道に進むよ』と言えなくてどうすんだよ!」って。長男は「親父が喜ぶ」と思ったんでしょうね。その後は二度と言わなくなりました。
だいいち、不動産屋なんて、儲かっているのは一部の業者だけで、労多くして報われない最たる業種ですし、長男には務まりません。
ところで、海の向こうではウォーレン・パフェット氏(世界第2位の富豪)が4兆3000億円をビル・ゲイツ氏(世界第1位の富豪)の財団に寄付するとか。自分の財産の8割です。そのパフェット氏、ふだんは富豪らしからぬ慎ましい暮らしぶりだとか。
日本に、両氏の爪の垢でも飲ませたい「品性卑しき女」がいます。
娘を誘拐された整形外科医、セレブな暮らしぶりをマスコミに露出していますが、私からすれば「全部自分と娘の為に遣っているケチなオバサン」でしかありません。しかも、娘の解放後の会見も、「いい宣伝になるわ」とでも考えているかのごとくで、お笑いです。
女性の本当の美しさは内面から表れます。「整形で美しくなれる」、と考えて大金を注ぎ込むのも、そう仕向けるのも、浅はかです。
整形で変われるのは自分だけ。娘が生まれても遺伝はしません。
努力して成功したのは立派ですが、大切なのは、「その後」です。
また誘拐されませんように!(皮肉)
なんだかんだ言ったところで、「尊敬されてもしんどいだけでカネにならないもの」なら、絶対に子供に継がせようなんて考えませんよ。これが「弁護士」とか「外交官」なら、難しい試験がありますから、親が希望しても継がせられるかどうか分かりませんが、医学部くらい、カネさえあって大学を選り好みしなければ何処かに入れます。入学してしまえば国家試験など普通に勉強してさえいれば受かるもの、だと思いますよ。現に、同級生にもそういうのいますから。
なので奈良の事件、あの長男の成績は「どの大学にも合格しない」というほど悪くなかったと思いますね。もちろん、開業医でなければ「裏ガネ」を積めるほど稼げない、とのことですし、親は「ちゃんと勉強して実力で」合格させようと考えたのでしょうけど、一流大学出身でなければ名医になれないワケじゃなし、「なんであそこまで子供を追い込んじゃったのかな」、と疑問を感じます。
医者になりたい、というのは本人の希望でもあったようですが、医者の子供が医者に向いてるかどうかは別の問題でしょうに。
でね、政治家が引退する時なんかも、自分の子供を後継者に指名することが実に多く、たしかに地盤(支持者)の意向も大きく働いているとは思いますが、そうであっても旨味が無いなら、しがらみだけの理由で「跡を継がせようとはしないもの」でしょう。
世襲は、政権政党だけでなく野党にも多く見られますもんね。
私なんか、長男が高校生の時、「僕はお父さんと一緒に不動産屋しようかな」、と言ったんで反射的にぶん殴りましたよ。「今から、楽しよう、などと考えていてどうする!『僕は僕、親父とは違う道に進むよ』と言えなくてどうすんだよ!」って。長男は「親父が喜ぶ」と思ったんでしょうね。その後は二度と言わなくなりました。
だいいち、不動産屋なんて、儲かっているのは一部の業者だけで、労多くして報われない最たる業種ですし、長男には務まりません。
ところで、海の向こうではウォーレン・パフェット氏(世界第2位の富豪)が4兆3000億円をビル・ゲイツ氏(世界第1位の富豪)の財団に寄付するとか。自分の財産の8割です。そのパフェット氏、ふだんは富豪らしからぬ慎ましい暮らしぶりだとか。
日本に、両氏の爪の垢でも飲ませたい「品性卑しき女」がいます。
娘を誘拐された整形外科医、セレブな暮らしぶりをマスコミに露出していますが、私からすれば「全部自分と娘の為に遣っているケチなオバサン」でしかありません。しかも、娘の解放後の会見も、「いい宣伝になるわ」とでも考えているかのごとくで、お笑いです。
女性の本当の美しさは内面から表れます。「整形で美しくなれる」、と考えて大金を注ぎ込むのも、そう仕向けるのも、浅はかです。
整形で変われるのは自分だけ。娘が生まれても遺伝はしません。
努力して成功したのは立派ですが、大切なのは、「その後」です。
また誘拐されませんように!(皮肉)
2006年06月23日
いいな、役得・・・
日本戦が有ろうと無かろうと、今日も日の出とともに起きている
私たち夫婦が親しくお付き合いさせて頂いているまりあさんが、添乗のお仕事でWC開催中のドイツに行っている。もちろん観戦ツアーであって、クロアチア戦、ブラジル戦を「お仕事」として観る。
まりあさんは、2004年お正月のスペイン旅行時の添乗員さんで、帰国後に「さとひろの旅日記」の記事を偶然目に留めて頂いたことから、改めてのお付き合いが始まったのだ。
で、サッカーには関心が無くても、そういうのってもの凄く羨ましい。
大会前には、旅行会社が予定していたチケットが取れなくてツアーが中止になったりする事件もあったが、「添乗」というのであれば、宿やチケットの心配も無用である。まさに役得である。
テレビの旅番組やグルメ番組を観ていて、たいしたタレントでもないノが豪華ホテル(部屋)に宿泊したり、超高級料理を食べていたりして、無性に腹が立ってくることがある。だいたいが、落ち目になったからこそのバラエティーとかリポーターであって、あんなノでも海外取材での飛行機はエコノミーなんてことはないのだろう、と思うと納得いかない。どうかすると、夫婦や、ガキまで連れた家族で出演していたりする。「テメエのカネで連れて行け!」と言いたくなる。
あ、まりあさんが「落ち目の添乗員」と言っているんじゃないよ(笑)
それどころか、私は過去には、まりあさんが「本当に優秀な添乗員」だと阪○交通社に直訴して大喧嘩しているくらいなんだから。
たぶん、私は阪○交通社のブラックリストに載ってると思う^_^;
まあそれにしても、不動産屋には稀に「副収入」はあっても「役得」というものは少ない。
強いて言うなら、さとひろと結婚できたくらい、かも知れない(^^♪
ほどほどで満足することにしよう(汗)
私たち夫婦が親しくお付き合いさせて頂いているまりあさんが、添乗のお仕事でWC開催中のドイツに行っている。もちろん観戦ツアーであって、クロアチア戦、ブラジル戦を「お仕事」として観る。
まりあさんは、2004年お正月のスペイン旅行時の添乗員さんで、帰国後に「さとひろの旅日記」の記事を偶然目に留めて頂いたことから、改めてのお付き合いが始まったのだ。
で、サッカーには関心が無くても、そういうのってもの凄く羨ましい。
大会前には、旅行会社が予定していたチケットが取れなくてツアーが中止になったりする事件もあったが、「添乗」というのであれば、宿やチケットの心配も無用である。まさに役得である。
テレビの旅番組やグルメ番組を観ていて、たいしたタレントでもないノが豪華ホテル(部屋)に宿泊したり、超高級料理を食べていたりして、無性に腹が立ってくることがある。だいたいが、落ち目になったからこそのバラエティーとかリポーターであって、あんなノでも海外取材での飛行機はエコノミーなんてことはないのだろう、と思うと納得いかない。どうかすると、夫婦や、ガキまで連れた家族で出演していたりする。「テメエのカネで連れて行け!」と言いたくなる。
あ、まりあさんが「落ち目の添乗員」と言っているんじゃないよ(笑)
それどころか、私は過去には、まりあさんが「本当に優秀な添乗員」だと阪○交通社に直訴して大喧嘩しているくらいなんだから。
たぶん、私は阪○交通社のブラックリストに載ってると思う^_^;
まあそれにしても、不動産屋には稀に「副収入」はあっても「役得」というものは少ない。
強いて言うなら、さとひろと結婚できたくらい、かも知れない(^^♪
ほどほどで満足することにしよう(汗)
2006年06月10日
「五七(七五)調」の文化
不倫8年 入籍2年
共に暮らして 早や5年
ノルン1歳 ひなたが2歳
賃貸稼業は 18年
長男独身 30歳
日本語の「五七調のリズム」というものは美しいものですね
♪「別れてくれと 言う前に
死ねよと言って 欲しかった」♪
♪「吹けば飛ぶよな 将棋の駒に
懸けた命を 笑わば笑え」♪
♪「惚れてふられた 女の心
あんたなんかにゃ 解かるまい」♪
♪「伊豆の山々 月淡く
灯りにむせぶ 湯のけむり」♪
五七調で綴られた名曲は枚挙に暇がありません。どのあたりから崩れてきたのか考えてみると・・・、吉田拓郎あたりから、でしょうか。
え?「今度は古すぎて解からない!」・・・ですか(ふ〜)
「サッカーには興味ない」と言ったり、古い演歌を引っ張ってきたり、していたのでは、若い読み手さんは引いてしまいますよね^_^;
でもね、寂しいんですよ、「五七調文化が風化しつつある」のが。
最近の楽曲ではやたら横文字が入ってきたりして、歌として聴かずに詞だけを読んでみると、不自然で調和など在ったものではありません。昔、長谷川きよしさんが、「詞が良くない曲は、メロディーが良くても好きになれない」、と仰ってましたが、全く同感です。
「やたら横文字が入る」、と言えば・・・、
以前勤めていた不動産屋時代のお客さんにオーストラリア国籍の弁護士さんがいて、当時流行っていた小林明子の「恋におちて」という曲の歌詞が途中から英語になるのを指して、「あの英語はデタラメです。英語ができなくて間違った英語を使うくらいなら、全部日本語で通した方が良い」、と仰ってまして、それも同感でした。
最近はテレビでも、「日本語に関するクイズ番組」が一つのブームになっていますが、きっと一過性のものでしょうね。
日本語としての言葉だけでなく、日本語が持つリズムやテンポの美しさ、というものも大切に受け継がれることを私は望んでいます。
何より、「言葉の乱れは文化の乱れ」、小学校からの英語教育も結構ですが、日本語教育はもっと大切、と、オジサンは考えます。
共に暮らして 早や5年
ノルン1歳 ひなたが2歳
賃貸稼業は 18年
長男独身 30歳
日本語の「五七調のリズム」というものは美しいものですね
♪「別れてくれと 言う前に
死ねよと言って 欲しかった」♪
♪「吹けば飛ぶよな 将棋の駒に
懸けた命を 笑わば笑え」♪
♪「惚れてふられた 女の心
あんたなんかにゃ 解かるまい」♪
♪「伊豆の山々 月淡く
灯りにむせぶ 湯のけむり」♪
五七調で綴られた名曲は枚挙に暇がありません。どのあたりから崩れてきたのか考えてみると・・・、吉田拓郎あたりから、でしょうか。
え?「今度は古すぎて解からない!」・・・ですか(ふ〜)
「サッカーには興味ない」と言ったり、古い演歌を引っ張ってきたり、していたのでは、若い読み手さんは引いてしまいますよね^_^;
でもね、寂しいんですよ、「五七調文化が風化しつつある」のが。
最近の楽曲ではやたら横文字が入ってきたりして、歌として聴かずに詞だけを読んでみると、不自然で調和など在ったものではありません。昔、長谷川きよしさんが、「詞が良くない曲は、メロディーが良くても好きになれない」、と仰ってましたが、全く同感です。
「やたら横文字が入る」、と言えば・・・、
以前勤めていた不動産屋時代のお客さんにオーストラリア国籍の弁護士さんがいて、当時流行っていた小林明子の「恋におちて」という曲の歌詞が途中から英語になるのを指して、「あの英語はデタラメです。英語ができなくて間違った英語を使うくらいなら、全部日本語で通した方が良い」、と仰ってまして、それも同感でした。
最近はテレビでも、「日本語に関するクイズ番組」が一つのブームになっていますが、きっと一過性のものでしょうね。
日本語としての言葉だけでなく、日本語が持つリズムやテンポの美しさ、というものも大切に受け継がれることを私は望んでいます。
何より、「言葉の乱れは文化の乱れ」、小学校からの英語教育も結構ですが、日本語教育はもっと大切、と、オジサンは考えます。
2006年06月09日
こんな人間もいる(超少数派)^_^;
世の中、ワールドカップで盛り上がっているが・・・、
私はサッカーというスポーツには全く興味が無い。全く、である。
その理由は、「人間の最大の武器は『手』であって、その武器を使うことを封印されているスポーツなどつまらない」、というもの。ゴールキーパー以外の選手が手を使っている場面を見ることもあるが、スローインか相手選手のユニフォームを引っ張っている姿。なので、どんなスーパープレイ(というもの)を見せられても感動もしない。神業とも言えるボールコントロールを見ても、「海老一染之助・染太郎の技術にはかなわないだろう」くらいに思ってしまう(爆)
だから、有給休暇を取ったり退職してまで大枚はたいて観戦ツアーに参加する人の気持ち、というのも理解できないでいる。「優先順位が間違ってるだろ!」、と突っ込みを入れたくなる(*^^)v
「手が使えないから嫌?、なら陸上競技はどうなんだ!」ですって?
陸上は「手や腕を使って走ってはならない」とは規定してないよね。
これ、もし「手を自由に使える」ことにしたなら、足で蹴ったりしないで、より正確な「手を使ったパス回し」に終始することだろう。
そうすると、ハンドボールになっちゃうか・・・^_^;
私はサッカーというスポーツには全く興味が無い。全く、である。
その理由は、「人間の最大の武器は『手』であって、その武器を使うことを封印されているスポーツなどつまらない」、というもの。ゴールキーパー以外の選手が手を使っている場面を見ることもあるが、スローインか相手選手のユニフォームを引っ張っている姿。なので、どんなスーパープレイ(というもの)を見せられても感動もしない。神業とも言えるボールコントロールを見ても、「海老一染之助・染太郎の技術にはかなわないだろう」くらいに思ってしまう(爆)
だから、有給休暇を取ったり退職してまで大枚はたいて観戦ツアーに参加する人の気持ち、というのも理解できないでいる。「優先順位が間違ってるだろ!」、と突っ込みを入れたくなる(*^^)v
「手が使えないから嫌?、なら陸上競技はどうなんだ!」ですって?
陸上は「手や腕を使って走ってはならない」とは規定してないよね。
これ、もし「手を自由に使える」ことにしたなら、足で蹴ったりしないで、より正確な「手を使ったパス回し」に終始することだろう。
そうすると、ハンドボールになっちゃうか・・・^_^;
2006年05月21日
ココログの「悪徳」に入ったトラックバックから
現在、コメントおよびトラバ受付休止中のSeesaaでの「悪徳」ではなく、移転前のココログの「悪徳」にトラックバックが入りました。
そのトラバ先を拝見していたら良いことが書いてありました。
新堂冬樹さんの小説「 鬼子 」の書評に在ったものなので、本からの引用でしょうか。 これ、何かの参考になると思います。
債権者から金を速やかに回収するためには、どんなに厳しい取立てでも、必ず、抜け道を残しておいてやるのがポイントだという。家族を追い込み家を押さえるならば、会社には乗り込まない。抜け道をひとつでも、換言すれば護るべきものをひとつでも残しておいてやれば、債務者は必死になって金を返済しようとするという。
映画「マルサの女」でも在ったような気がしますが、実は、国税局が法人税の脱税を追及する際、必ずしも完全に徴収しようとはしないそうです。少し手心を加えることで「納税の意欲」を持たせることが出来るとか。徹底的に追徴してしまうと、また脱税をするものだそうです。だいいち、それで会社が潰れたら徴収どころではなくなります。
私が、25年前、千葉の山道で気持ち良く飛ばしていて白バイに捕まった時、本当は白バイのメーターは25キロオーバーを指していましたが、お巡りさんは、「いや15キロオーバーですよ」と言って免停にならないようにしてくれました。別れ際、「スピード出し過ぎないように安全運転でお願いしますよ」と声を掛けてくれたことで、「そうだ、私が悪い」と思えましたモンね(爆)
もっとも、捕まった時に、「こんな道、対向車も人もいねえじゃないか!」などと悪態をついたら即免停だった、と思いますが(*^^)v
子供を叱る時も、必ず心の逃げ道を残しておくことは大切ですね。
どんなに子供が全面的に悪くても、完全に逃げ道を塞いで大人の理屈で追い込んでしまうのは逆効果になります。そういう叱り方は母親に多いですね。私も、「もうそのへんで止めておけ」と女房(元妻)を止めることがよくありました。聞かなかったですけどね^_^;
滞納家賃を請求する時も、そういうのは心掛けています。
ただし、相手の出方によりけり、ではありますが。
そのトラバ先を拝見していたら良いことが書いてありました。
新堂冬樹さんの小説「 鬼子 」の書評に在ったものなので、本からの引用でしょうか。 これ、何かの参考になると思います。
債権者から金を速やかに回収するためには、どんなに厳しい取立てでも、必ず、抜け道を残しておいてやるのがポイントだという。家族を追い込み家を押さえるならば、会社には乗り込まない。抜け道をひとつでも、換言すれば護るべきものをひとつでも残しておいてやれば、債務者は必死になって金を返済しようとするという。
映画「マルサの女」でも在ったような気がしますが、実は、国税局が法人税の脱税を追及する際、必ずしも完全に徴収しようとはしないそうです。少し手心を加えることで「納税の意欲」を持たせることが出来るとか。徹底的に追徴してしまうと、また脱税をするものだそうです。だいいち、それで会社が潰れたら徴収どころではなくなります。
私が、25年前、千葉の山道で気持ち良く飛ばしていて白バイに捕まった時、本当は白バイのメーターは25キロオーバーを指していましたが、お巡りさんは、「いや15キロオーバーですよ」と言って免停にならないようにしてくれました。別れ際、「スピード出し過ぎないように安全運転でお願いしますよ」と声を掛けてくれたことで、「そうだ、私が悪い」と思えましたモンね(爆)
もっとも、捕まった時に、「こんな道、対向車も人もいねえじゃないか!」などと悪態をついたら即免停だった、と思いますが(*^^)v
子供を叱る時も、必ず心の逃げ道を残しておくことは大切ですね。
どんなに子供が全面的に悪くても、完全に逃げ道を塞いで大人の理屈で追い込んでしまうのは逆効果になります。そういう叱り方は母親に多いですね。私も、「もうそのへんで止めておけ」と女房(元妻)を止めることがよくありました。聞かなかったですけどね^_^;
滞納家賃を請求する時も、そういうのは心掛けています。
ただし、相手の出方によりけり、ではありますが。
2006年05月16日
「俺の前に立つな!」、と言いたい
世の中、便利になったもので、デパートだけでなく歩道橋にまでエスカレーターが設置されていたりする。時として、これが中高年のオジサンにとっては大変な恐怖になる。
下りはいいのだが、昇りのエスカレーターで絶対に自分の前に立って欲しくない存在がある。
女子高生、である。
どういう訳か最近の女子高生のスカート丈は短い。ほとんどが下着まであと5cm、いや3cmといったところだろうか。エスカレーターで前に立たれた日には目のやり場に困る。こっちは真っ直ぐ前を見ているだけなのに、さも覗いているように疑われる。
誰がお前たちの汚いパンツなど見たいものか!フンッ!
だいたいが今時の女子高生なんか誰も股下から足首まで同じ太さじゃないか。そんな脚で「オジサンが喜んでる」なんて思うなよ!
昔は良かった・・・・。校則が厳しくてスカート丈は膝までだったから、運良く風の強い日があるとフワ〜と捲くれ上がったりして、それを恥ずかしそうに必死で押さえている様というものはアンタ、えもいわれぬ色気があった。それが思いを寄せる女の子だったりすると何とか脳裏に焼き付けようと必死になったモンだ。
今は風が吹かなくてもソコまで見えている。世も末である。
自分たちでそんな短いスカートを穿いていながら、一方的にスケベおやじだの痴漢だのと言われたんでは堪らない。だから私は、昇りのエスカレーターで女子高生やスカートの女性が前に立ったなら、最初から最後まで真横を向いて立っている。横を向いたまま「そろそろ降り口あたりかどうか」を判断したりする。それも怖い。
だから、女子高生の集団と遭遇しただけで「今日はツイテないや」、と思ってしまう。エスカレーターだけでなく、横断歩道の信号待ちも囲まれたら恐怖だ。奴らの下校時間には駅前の銀行にも行けない。
オジサンはなあ、オジサンは・・・・・、
本音
下りはいいのだが、昇りのエスカレーターで絶対に自分の前に立って欲しくない存在がある。
女子高生、である。
どういう訳か最近の女子高生のスカート丈は短い。ほとんどが下着まであと5cm、いや3cmといったところだろうか。エスカレーターで前に立たれた日には目のやり場に困る。こっちは真っ直ぐ前を見ているだけなのに、さも覗いているように疑われる。
誰がお前たちの汚いパンツなど見たいものか!フンッ!
だいたいが今時の女子高生なんか誰も股下から足首まで同じ太さじゃないか。そんな脚で「オジサンが喜んでる」なんて思うなよ!
昔は良かった・・・・。校則が厳しくてスカート丈は膝までだったから、運良く風の強い日があるとフワ〜と捲くれ上がったりして、それを恥ずかしそうに必死で押さえている様というものはアンタ、えもいわれぬ色気があった。それが思いを寄せる女の子だったりすると何とか脳裏に焼き付けようと必死になったモンだ。
今は風が吹かなくてもソコまで見えている。世も末である。
自分たちでそんな短いスカートを穿いていながら、一方的にスケベおやじだの痴漢だのと言われたんでは堪らない。だから私は、昇りのエスカレーターで女子高生やスカートの女性が前に立ったなら、最初から最後まで真横を向いて立っている。横を向いたまま「そろそろ降り口あたりかどうか」を判断したりする。それも怖い。
だから、女子高生の集団と遭遇しただけで「今日はツイテないや」、と思ってしまう。エスカレーターだけでなく、横断歩道の信号待ちも囲まれたら恐怖だ。奴らの下校時間には駅前の銀行にも行けない。
オジサンはなあ、オジサンは・・・・・、
本音
2006年05月11日
2006年04月06日
靖国神社に参拝して
忘れないうちに書いておこうと思います^_^;
先週の水曜日、さとひろと一緒に(私たちにとっての)遠出をしました。その件に関しては、さとひろも恐る恐る記事にしておりますが、行き先は靖国神社と羽田空港第2ターミナルでした。
靖国神社には、ちょうど桜も咲いていることですし、私の「日本人である以上、せめて自分が死ぬまでに一度は靖国神社に」という願いから参拝しました。歳をとって思想が右(保守)に傾いてきた、というのではありません。思想や信条、支持する政党や政治家、戦争に対する考え方、などと関係なく、先の戦争に召集されて命を落とした多くの戦没者に対して哀悼の意を表したい、との思いです。
行ってみると、私の想像していたものとはだいぶ違った様子でした。中韓が靖国神社を正しく理解しているとは思えませんが、率直に言って「う〜ん、これでは中韓が騒ぐのも少しは解かるな」という感じでした。太平洋戦争以前の戦没者も祀られてはいるのですが、それは申し訳程度で、メインは太平洋戦争の戦没者の御霊、ということになります。それは当然としても、敷地内の遊就館(戦争博物館のようなもの)の展示の内容と仕方を見れば、「日本は間違っていない」「他国を侵略する意図は無かった」「アメリカの策謀に嵌った」「戦争せざるを得なかった」等々、弁明と美化のオンパレードで、それが正しかったとしても、これでは逆に「大戦で命を落とされた方は浮かばれないだろう」と思ってしまいます。
境内には、東京裁判で「戦勝国が敗戦国を裁くことの不当性」を訴えたインドのパール判事の石碑もあって、石碑に刻まれていた判事の言葉は極めて正しい考え方と思いますし、まさに我が意を得たりの思いですが、日本にとっての恩人であっても、靖国神社の境内で石碑にまでしてしまうのは如何なものか、と疑問に思いました。
ちなみに、パール判事については下記サイトに詳しく書かれています。奥様も、古き良き時代の大和撫子のような方ですね。
http://www6.plala.or.jp/mwmw/kotoba.html
で、たしかに、日本だけが悪い、間違っていた、ということは有り得ません。互いに国益を懸けて戦うのですから、どちらにも言い分は有るものでしょう。ただ、一歩下がって広い視野から見つめ直して「日本もこういう間違いがあった」「この件では日本(政治家や軍部)が判断を誤った」という反省があっても良いのでは、と思えました。
「日本は悪くない。戦争は間違いでは無かった」と言い続けることが、必ずしも「戦没者の御霊を慰めることになる」とは思えません。自虐教育は論外ですが、何の為に前途のある若者や多くの国民が命を落とすことになったのか正当に判断してこそ真に戦没者に報いることが出来るのでは、と感じました。遊就館に展示されている資料や言葉は「日本の正当性を訴える為の後付けの理由」とさえ思えます。例えそれが正しくとも、英霊を祀るのにそんなことをする必要は無いでしょう。
もし、私が戦死者なら、「お国の為に散っていった」と祀られるより、「無駄死にであった」と位置づけられた方が嬉しいですね。
その「遊就館」ですが、戦闘機や魚雷の実物大レプリカ(現物)や、軍艦の模型なども数多く展示されていて、そりゃあ中韓の人たちは靖国アレルギーになるでしょう。本来ならば、靖国神社とは切り離して「戦争博物館」「記念館」として展示した方がいいのに、と思いました。翌日、そのことを社長に話すと、「いやあ、ああいうものは何処にも持って行けないだろう。靖国にしか置けないモンだと思うよ」とのことでした。社長は毎年8月には靖国神社にお参りしているようです。
実は、私は「今の日本の繁栄は大戦で犠牲になった人たちのお陰」とは思っていません。そんなのはキレイ事です。客観的に見れば「戦没者の犠牲と戦後の日本の繁栄は別の次元のもの」だと思います。敗戦により戦勝国のアメリカと国交を深めたことが日本の発展に役立った、とは思いますが、犠牲になられた多くの命と、その後の日本の発展は全く無関係、とさえ思っています。要するに、戦争で命を亡くすことは「全て無駄死に」、と考えます。だからこそ、戦争はしてはならないし、美化したり正当化してはならない、と思うのです。
私の父親は出征し、戦後50年を生き長らえて畳の上で亡くなりました。戦死した訳ではありません。
では何故私が「靖国に参拝したい」と願っていたか、というと・・・、
「その戦争の意義も意味も正しく知らされることもなく、命令により何も解からずにただ『お国の為』と信じて理不尽に散らされた御霊に対し手を合わせたかった」、という一点に尽きます。
私は、戦争に行った親父から「この戦争は間違いだったと思う。国が判断を誤ったんだよ。戦争で亡くなった連中は結局は無駄死にさせられたんだよ。戦争なんて、そんなものさ」と聞かされて育ちました。たぶん、親父の言葉は正しいでしょう。
戦没者の犠牲の上に今の繁栄や幸せがある、とも思えませんが、ただ、日本人が営々と築いてきた歴史や文化や気質というものを大切にしたい、短い命を受け継いで絶やさないでくれた先達の方々に手を合わせたい、という思いでお参りしてきました。
そういう思いに右も左もありません。世の中に「正しい戦争」なんてものが在るとは思いませんし、戦争はしないに越したことはありませんが、最近の若者の様子を見るにつけ、「日本にも徴兵制度があったほうが良いのでは」、と思うようになりました(苦笑)
中韓の主張とは別(逆)の意味で、子供たちに歴史を正しく伝え、真の「自由と権利と義務」を正しく教育することが、国の発展の為に不可欠なもの、と強く感じました。
でもって「お断り」です。この記事は適宜修正するかも知れません。自分でも「充分整理されていない文章」と思えますので。
先週の水曜日、さとひろと一緒に(私たちにとっての)遠出をしました。その件に関しては、さとひろも恐る恐る記事にしておりますが、行き先は靖国神社と羽田空港第2ターミナルでした。
靖国神社には、ちょうど桜も咲いていることですし、私の「日本人である以上、せめて自分が死ぬまでに一度は靖国神社に」という願いから参拝しました。歳をとって思想が右(保守)に傾いてきた、というのではありません。思想や信条、支持する政党や政治家、戦争に対する考え方、などと関係なく、先の戦争に召集されて命を落とした多くの戦没者に対して哀悼の意を表したい、との思いです。
行ってみると、私の想像していたものとはだいぶ違った様子でした。中韓が靖国神社を正しく理解しているとは思えませんが、率直に言って「う〜ん、これでは中韓が騒ぐのも少しは解かるな」という感じでした。太平洋戦争以前の戦没者も祀られてはいるのですが、それは申し訳程度で、メインは太平洋戦争の戦没者の御霊、ということになります。それは当然としても、敷地内の遊就館(戦争博物館のようなもの)の展示の内容と仕方を見れば、「日本は間違っていない」「他国を侵略する意図は無かった」「アメリカの策謀に嵌った」「戦争せざるを得なかった」等々、弁明と美化のオンパレードで、それが正しかったとしても、これでは逆に「大戦で命を落とされた方は浮かばれないだろう」と思ってしまいます。
境内には、東京裁判で「戦勝国が敗戦国を裁くことの不当性」を訴えたインドのパール判事の石碑もあって、石碑に刻まれていた判事の言葉は極めて正しい考え方と思いますし、まさに我が意を得たりの思いですが、日本にとっての恩人であっても、靖国神社の境内で石碑にまでしてしまうのは如何なものか、と疑問に思いました。
ちなみに、パール判事については下記サイトに詳しく書かれています。奥様も、古き良き時代の大和撫子のような方ですね。
http://www6.plala.or.jp/mwmw/kotoba.html
で、たしかに、日本だけが悪い、間違っていた、ということは有り得ません。互いに国益を懸けて戦うのですから、どちらにも言い分は有るものでしょう。ただ、一歩下がって広い視野から見つめ直して「日本もこういう間違いがあった」「この件では日本(政治家や軍部)が判断を誤った」という反省があっても良いのでは、と思えました。
「日本は悪くない。戦争は間違いでは無かった」と言い続けることが、必ずしも「戦没者の御霊を慰めることになる」とは思えません。自虐教育は論外ですが、何の為に前途のある若者や多くの国民が命を落とすことになったのか正当に判断してこそ真に戦没者に報いることが出来るのでは、と感じました。遊就館に展示されている資料や言葉は「日本の正当性を訴える為の後付けの理由」とさえ思えます。例えそれが正しくとも、英霊を祀るのにそんなことをする必要は無いでしょう。
もし、私が戦死者なら、「お国の為に散っていった」と祀られるより、「無駄死にであった」と位置づけられた方が嬉しいですね。
その「遊就館」ですが、戦闘機や魚雷の実物大レプリカ(現物)や、軍艦の模型なども数多く展示されていて、そりゃあ中韓の人たちは靖国アレルギーになるでしょう。本来ならば、靖国神社とは切り離して「戦争博物館」「記念館」として展示した方がいいのに、と思いました。翌日、そのことを社長に話すと、「いやあ、ああいうものは何処にも持って行けないだろう。靖国にしか置けないモンだと思うよ」とのことでした。社長は毎年8月には靖国神社にお参りしているようです。
実は、私は「今の日本の繁栄は大戦で犠牲になった人たちのお陰」とは思っていません。そんなのはキレイ事です。客観的に見れば「戦没者の犠牲と戦後の日本の繁栄は別の次元のもの」だと思います。敗戦により戦勝国のアメリカと国交を深めたことが日本の発展に役立った、とは思いますが、犠牲になられた多くの命と、その後の日本の発展は全く無関係、とさえ思っています。要するに、戦争で命を亡くすことは「全て無駄死に」、と考えます。だからこそ、戦争はしてはならないし、美化したり正当化してはならない、と思うのです。
私の父親は出征し、戦後50年を生き長らえて畳の上で亡くなりました。戦死した訳ではありません。
では何故私が「靖国に参拝したい」と願っていたか、というと・・・、
「その戦争の意義も意味も正しく知らされることもなく、命令により何も解からずにただ『お国の為』と信じて理不尽に散らされた御霊に対し手を合わせたかった」、という一点に尽きます。
私は、戦争に行った親父から「この戦争は間違いだったと思う。国が判断を誤ったんだよ。戦争で亡くなった連中は結局は無駄死にさせられたんだよ。戦争なんて、そんなものさ」と聞かされて育ちました。たぶん、親父の言葉は正しいでしょう。
戦没者の犠牲の上に今の繁栄や幸せがある、とも思えませんが、ただ、日本人が営々と築いてきた歴史や文化や気質というものを大切にしたい、短い命を受け継いで絶やさないでくれた先達の方々に手を合わせたい、という思いでお参りしてきました。
そういう思いに右も左もありません。世の中に「正しい戦争」なんてものが在るとは思いませんし、戦争はしないに越したことはありませんが、最近の若者の様子を見るにつけ、「日本にも徴兵制度があったほうが良いのでは」、と思うようになりました(苦笑)
中韓の主張とは別(逆)の意味で、子供たちに歴史を正しく伝え、真の「自由と権利と義務」を正しく教育することが、国の発展の為に不可欠なもの、と強く感じました。
でもって「お断り」です。この記事は適宜修正するかも知れません。自分でも「充分整理されていない文章」と思えますので。


