2007年07月16日

三遊亭円楽師匠が完全引退

私からすれば最後の古典落語演者、三遊亭円楽師匠(74)が脳梗塞による後遺症のため完全引退なさるとか・・・、非常に残念です!

私が未だ若かった頃、円楽師匠が演ずる「淀五郎」という落語を聴いて、落語家を(ホンの一瞬)志したことがあります。その「淀五郎」、私が唯一、ほぼ完全に憶えている噺であって、誰かの披露宴にでも招かれて時間が余っているなら、ぜひ演じてみたいもの、と願っておりまして、どんな噺かというと・・・、

私は耳で(音で)憶えているので、漢字が合ってるか判りませんが、


歌舞伎役者四代目市川団蔵一座が「忠臣蔵」を演じることになりますが、初日を目前にして判官役の沢村宗十郎が急病で倒れ、さりとて、もう演目を差し替えるというワケにもいかず、まだ下っ端だった沢村淀五郎を大抜擢して判官をやらせることにします。

さて、いよいよ初日を迎え、4段目の判官切腹の場面、団蔵演ずる由良之介は、検視役の石堂馬之丞が気を利かし「聞き及ぶ大星由良之介とはそのほうか。苦しゅうない、近う、近う!」と何度言っても、あまりの淀五郎の下手さに判官の傍に寄ろうとしません。

舞台がハネてから師匠の楽屋を訪れワケを聞くと、「判官が腹を切っているから由良之介は傍に行けるんだ。淀五郎が腹を切っている傍に寄って行けるかどうか考えてみろい。どうもこうもない、本当に腹を切ればいいんだよ、本当に!」と叱られます。

思いつめた淀五郎は舞台で団蔵を斬り殺して自分も本当に腹を切って死のうと考え、幼い頃からお世話になっていた中村仲蔵のもとに今生の別れの挨拶に訪れます。

事情を察した仲蔵は淀五郎を諭し稽古をつけてやります。一晩で見違えるように上手くなった淀五郎の判官に、団蔵は「これなら傍に行かないワケにはいくまい」と、花道をツツツと進んで判官の傍に寄っていきますが、淀五郎はいつものように花道の先を見やり、「なんだい、今日は花道にも出ないのかい。いくら下手だといっても丸きり出ないというのはヒドイ。畜生め、舞台を降りたらどうしてくれようか、だが、声がしたようだったが・・・」とひょいと傍を見ると団蔵がいます。

最後のオチは書かないことにして^_^;

この噺の中で、団蔵が淀五郎に説教する場面、大好きです。

「おまえのしている役は一体全体なんだい、ええ!、おまえのしている役は5万3千石の大名で、殿中で高師直(こうのもろのう)に刃傷をしてその身は切腹、家は断絶、それを国許の由良之介が聴いてビックリして早籠で鎌倉の屋敷に駆け込んでくる。片足、籠から下ろして『殿は』と言って訊くと『今お腹を召しているところ』だと言う。忠義無二の由良之介のことだから早くご主人様にお目にかかりたい、存上で一目でもお目にかかりたい、というんで由良之介ほどの人も些か取り乱して駆け込んでくる。と向こうに検視の役人がいるから『これは無礼をした』と平伏するのが花道の七三のところで、すると石堂馬之丞てえ人は情けのある侍だから『聞き及ぶ大星由良之介とはそのほうか。苦しゅうない、近う、近う』と言われたんだから、由良之介にしてみればこんなに有り難いことは無い。直ぐにでもご主人様の傍に飛んで行きたいと思うだろう・・・、それが行かれねえんだ」

と一気に捲くし立てます。聞かせどころです。


本人のためを思えばこそ辛く厳しく当たってくれる人というものはいるもので、そういう人を疎んだり、嫌ってしまうようでは人間「先」がありません。「淀五郎」、勉強になる人情話です。

円楽師匠、しっかり養生して頂いて、できることなら再び高座に立ってくださることを願っています。

posted by poohpapa at 07:37| Comment(2) | 文化・芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月30日

グレゴリー・コルベールの写真展、行ってきました

一昨日の水曜日、先日の記事でご紹介した「グレゴリー・コルベールの写真展」を観るために、お台場まで行ってきました。

六本木でも開催されていますが、交通の便が悪い(乗換えが面倒で分かりにくい)のと、千葉のEさんも「観たい」とのことで、お台場がちょうど中間地点ですし、Eさんが「ゆりかもめに乗ってみたい」と言うので、ま、「首都圏近郊在住型おのぼりさん」に合わせました(*^^)v

今までに無い雰囲気の写真展でしたね。一枚一枚が大きく、パネルになってないんですよね。どの一枚も、前に立って「いつまでもゆっくり観ていたくなる」写真ですね。眺めているだけで癒されます。

撮影風景を動画に収めた5分程度の短編映画二本と、1時間くらいの映画も上映されていますが、高さの違う円柱型の木製の椅子が並んでいるだけなので、途中でお尻が痛くなってしまいました^_^;

動物と子供や少女との静止画像(写真)と同時に、動画でも見せようという試みでしょうが、長編のほうは作為的かつ人工的でヤラセっぽく、写真を観た「せっかくの感動」が薄められてしまって残念でした。

あと、ショップで販売されている写真集やポスターなどのグッズもかなり高価でした。作りは豪華で洒落ていて、たしかに上等な素材を使っているのも分かりますが、写真集1冊でも16800円、ポスター1枚が6800円というのは、ちょっとねえ・・・、考えちゃいます。

写真集を買うと、期間限定の特典として会場で上映されていた(シラけてしまう映画の)DVDか(上記の)ポスターが1枚付いてきます。

そのポスター、凄くイイのですが、ポスター1枚に6800円は払えないし、ポスターだけ買うくらいなら思い切って写真集を買っちゃいますね。Eさんは「豪華な写真集」を買ってポスターをもらいました。

ちなみにポスターは2種類あって、Eさんはこの右の(少女と象)の写真のほうを選びました。もう一種類はこちらの(少年と象)の写真でした。どちらも、お部屋に飾ったなら心が落ち着くことでしょう。

私はスクリーンセーバー(1800円)だけ買いましたが、蝋を染み込ませた厚紙でパッケージされているので盤面が傷だらけでした。デザイン重視で凝り過ぎてるんですよ。お店の人もちゃんと説明して現物を見せてくれましたが、家に帰って出してみると、移動中に更にスリ傷が増えていました。ま、使用には問題ありませんが・・・。


うちのは、チーターなどの猫科の動物の写真を観て「留守番させているノルン」を思い、私は象の写真を観て「タイを旅した時の象さん」のことを思い出していました。今頃、どうしているかなあ・・・。

写真展はお台場の会場では6月24日(日)まで開催されています。

posted by poohpapa at 05:49| 文化・芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月23日

かつて見たことがない美しい写真

私は全く知りませんでしたが、先日、「グレゴリー・コルベール」という写真家の展覧会をテレビで紹介していました。

初めて見て、「え?これで合成じゃないの!?」というくらい幻想的で美しく、ひと目で惹き付けられてしまいました。心が洗われます。

合成ではないとのことですから、何千回、何万回シャッターを押しても、そのうちで数枚しか「納得いく写真」は撮れないものでしょうね。

期間中に必ず訪れたいと思います。なんでも「コルベール氏の写真集は高価で、一冊1万5千円ほどする」そうですが、氏の写真集なら無理してでも欲しい、手元に置いておきたい、と思ってしまいますね。セピア調で、眺めているだけで心が落ち着いて癒されそうです。

お台場と六本木、二箇所で開催されていて、会期も料金も違っているようです。展覧会の概要は、どちらも下記から見られます。


http://roppongihills.com/jp/events/macg_animal.html


写真がお好きな方、ぜひ会場に足を運ばれてみては如何でしょう。

posted by poohpapa at 06:29| 文化・芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月03日

新美南吉、と、うちの墓

私の郷里の半田市で、「郷里が生んだ偉人」とでもいうアンケートを取ったなら、きっと「新美南吉」が最も票を集めることだろう。

新美南吉、と言われてもピン!とこなければ、「ごんぎつね」と言えば直ぐ思い出して頂けることと思う。他にも、「手ぶくろを買いに」や「おぢいさんのランプ」は、今も小学校の国語教科書の定番である。

私にとっては中学高校の大先輩で、短い生涯に幾つかの名作童話を遺した南吉も、私の子供の頃にはあまり関心をもたれてはいなかった。童話や小説の価値が見直されるようになったのは比較的最近のことである。というより、「何か郷土に誇れるものは無いか、と町が考えて、そういえば・・・、と、やっと気が付いた」くらいの話であろう。


昨年他界した母の墓参りのために、さとひろと長男次男を伴って、秋の彼岸前に一度帰省するつもりだが、その際には、せっかくだから「新美南吉記念館」と、常滑市の「常滑焼セラモール」にも寄ってこようと思っている。

向こうに行っても「足」が無いので、今から親友に「おまえ、休み取って車出せ。(私たちへの)土産も用意しとけよ」、と言ってある(^^ゞ

で、実は、私はご先祖様の墓所がどこにあるか知らない。何度か行っているが、いつも連れて行ってもらっているので全く気にしていなかった。仮に墓苑まで辿りついても、どの区画がそうかも判らない。

だが、私には切り札がある。うちの「先祖代々の墓」は、その「新美南吉」のお墓の3ブロック隣りにある、ということだけは覚えている。なんてことになれば、先に記念館に寄って訊く、という手もある。



「ごんぎつね」は、命の尊さ、人(動物)の優しい心の大切さを説く上で格好の教材であるし、今の私の価値観の原点にもなっている。

ご先祖様への墓参りのついで、と言ったら申し訳ないが、南吉の墓にも是非お参りしてきたい、と思っている。


posted by poohpapa at 04:21| 文化・芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月21日

ちょっとコーヒーブレイク 3

デジタルだけが良いことか、というお話。

先日、図書館からクラシックのCDを2枚借りてきて聴いていたのだが、どうも面白くない。演奏そのものが不味いのではなく、音が、である。

どちらも1982年頃にデジタル録音で収録されたものだが、各楽器の音の分離が良すぎて滑らかさに欠けるのである。面取り(角を削り落とす処理)をしてない木材や大根のように、音が尖っていて聴き心地が悪いのだ。

曲目は、カラヤンとベルリンフィルの組み合わせで出された初期のデジタル録音による「運命」と「田園」で、私は同じ演奏者の組み合わせで1962年に録音したベートーベンの交響曲全集も何度か聴いているし、70年前後にアナログで再収録した全集(LP)も購入したが、音(音質ではない)だけで言えば遥かにそっちの方が良いように思う。

何だか、客席の最前列、真ん中の席で聴いているようで落ち着かない。

2週間ほど前に、クラウディオ・アバド指揮(カラヤンの死去を受けて1990-2002年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団芸術監督・首席指揮者に就任)のベルリン・フィルで、「田園」と「ドヴォルザークの交響曲第8番」を借りてきたが、こちらは音質ではなく、演奏そのものがまるでダメで、贔屓目ではなく、ベルリン・フィルはカラヤンの後継に小澤征爾氏を選んでおけば良かったのに、と思わされてしまった。2曲聴いただけだが、アバド氏の音楽性が乏しいのは充分解かった。

話を戻して、今やカメラもオーディオも時計も、その他諸々の電化製品総てデジタル全盛であるが、必ずしもデジタルが全てにおいて優れているとは言えないのでは、と思うようになった。時計だって本当の高級品はアナログの機械式である。クオーツの出始めの頃、文字盤に数字が現れるデジタル式は高価なものだったが、今は千円で買える。

私はオーディオが好きで、一日も早く良い音で音楽を聴きたくて進学せずに就職をしてしまったくらいで、ステレオのスイッチを入れた直後の音と、1時間ほど経過した後の音の違いも解かるようになったし、ピアニストの音の違いも識別できるから、耳だけは他の人より優れていると自負しているが、どなたか装置による音質差に詳しい方がいらっしゃれば、是非ご意見を聞かせて頂けたら、と思う。私の思い過ごし、かも知れないが。

こんなことで「昔は良かった・・・」、と懐かしんでいるのだから、歳はとりたくない(笑)
posted by poohpapa at 06:00| Comment(13) | TrackBack(1) | 文化・芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする